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『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』感想 - 何度観ても、佳いアニメは佳い

この文章は、製作者の意図を探ることを目的としたものではありません。

 

この記事には『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』および原作・TVアニメ『文豪ストレイドッグス』のネタバレが含まれます。

 

 2018年3月3日、五十嵐卓哉監督・榎戸洋司脚本の『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』が公開されました。

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第二週第三週の劇場特典もありますし、すくなくないファンがこれから二度三度とこの映画を観ることになるでしょう。そのとき、『DEAD APPLE』がどれほどの深度と強度を兼ね備えた作品なのか今以上に感じてほしい、あるいは「あとは円盤が出た頃にまた観ればいいや……と思ってたけどもう一回くらい劇場で観ておこうかな」とひとりでも多くの人に思ってもらいたい、というのがこの記事のすべてです。それさえ伝わればここで読むのをやめてもらって全然オッケーです。考察と呼べるほど大それたものではありません。

この映画がどれほど素晴らしい情熱と技巧によって成立しているものなのか、わたしがそのすべてを理解することは一生涯にわたってないでしょう(これはあらゆる作品においてそうですが)。『DEAD APPLE』という山脈の頂にわたしが至ることはできません。しかしその道程のすべてがうつくしい。だから、わたしの登山の一部をここに書き記します。おそらくあなたがいるのは『DEAD APPLE』山の三合目あたりだと思います。わたしもそのへんにいます。どうか三合目の風景のうつくしさを誇ると同時に、まだ見ぬ山頂に思いを馳せてほしいのです。そこから見る夜明けは絶対に見たこともないほどうつくしいはずなので。

 

「すごい空だな」

「ああ、すごいな。でも僕たちはこれから、これとは違うもっとすごい空を、きっと見るさ」

 

STAR DRIVER 輝きのタクト』第25話「僕たちのアプリボワゼ」(監督:五十嵐卓哉、シリーズ構成・全話脚本:榎戸洋司

 

* * *

 

前置きが長くなってしまいました。『DEAD APPLE』について考えると全身がエモになりポエムと引用が止まらなくなる病気なので勘弁してください。この病も愛していきましょう*1

先に断っておくと、現在公開中の映画ということで台詞はかなりうろ覚えです。これからもっとたくさん通って正確性を高めてゆくのでご容赦ください。特に出典のない台詞引用は『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』からのものです。
また、だいたい初期のふせったーの文章をまとめただけの記事なので、わたしのふせったーを読んでらっしゃる方はこれを読んでもあんまり面白くないかもしれません。

 

何から話せばいいのかわからないので、この映画の最も好きなところから話します。とにかく『DEAD APPLE』サイコ~という話以外しません。

 

 

風の吹く街

 

TVシリーズ泉鏡花が「ただいま」を言うまでの物語、そして劇場版は中島敦が「いってきます」を言うまでの物語です。

色々とすごい映画なんですが、とにかくこの点が本当に好きです。ぜひTVシリーズ最終話を再視聴してから劇場に足を運ばれてください。

 

鏡花「ただいま」

敦「……おかえり」

 

太宰「佳い眺めじゃないか。君が守ったんだ。……君の街だ」

敦「僕の街……か」

 

文豪ストレイドッグス』第24話「若し今日この荷物を降ろして善いのなら」

 

 

これらの台詞はアニメオリジナルのものです。TVシリーズは「居場所のない迷い犬たちの話」「迷い犬たちが街を守る話」に「ヨコハマが〈僕の街〉になるまでの話」「ただいまを言える場所ができるまでの話」の要素を絡め、原作をまとめあげていました。『DEAD APPLE』はTVシリーズと地続きの話なのだと強く感じさせてくれる終わり方でほんとうに嬉しかったです。

 

『DEAD APPLE』は扉に着目すると面白い映画です*2。閉ざされた記憶の小部屋の扉が何度も印象的に挿入されているだけでなく、全編にわたり様々な扉が興味深い形で描かれています。

街が霧に覆われた夜、鏡花は襖という扉を開けて、闇の中にいた敦を光に満ちた部屋に誘い出します。鏡花は作中で「私はあの人に光の世界に居てほしいだけ」と言いますが、今作においてはむしろ鏡花が敦の導き手であることが伺える象徴的なシーンです。
また、マフィア上層部のみが使える地下通路に向かうエレベーターの扉を開けるのは芥川です。敦は芥川についてゆけないと立ち去る彼を見送ろうとしますが、ここで鏡花が閉まりゆく扉に手を差し入れ、再び扉を開きます。そして敦を進むべき道に導いてゆくのです。車を運転していたのが鏡花であることもまた、作中の論理的必然性に基づくシーンでありながら、この構造がそのまま画面に表れていて秀逸です。

 

ラストでは、敦と鏡花が「いってきます」と言って探偵社を出てゆきます。このときの武装探偵社の扉で〆るのがまたニクい構成です。進むべき道、直視すべき部屋の扉を描き、最後の最後で「帰る場所」の扉を映して、この物語は幕を閉じる。『DEAD APPLE』は様々な要素のある映画ですが、この細やかな一貫性によって地に足の着いた話になっていると感じます。

 

 

リフレインの救済

 

太宰「これがお墓参りしているように見えるかい?」

敦「……見えますけど」

(冒頭、墓地にて)

 

敦「太宰さんは、この街を守ろうとしたんですよね」

太宰「私がそんなことをする佳い人間に見えるかい?」

敦「……見えますけど」

(ラスト、朝日をのぞむ彼ら)

 

 

このグッと来る反復表現は脚本家・榎戸洋司の得意技です。

 

太宰「まったく、異能力者って連中は皆、どこか心が歪だ」

(Aパート、敦にぼやく太宰)

 

谷崎「ほんっと、異能力者って奴らはどこか心が歪だ」

(Bパート、爆弾のスイッチを押す谷崎)

 

文豪ストレイドッグス』第2話「或る爆弾」

 

また、『DEAD APPLE』にはTVシリーズからの反復もあります。第1話の乱歩は「中々できるようになったじゃないか、太宰。まあ僕には遠く及ばないけどね」と言いますが、映画では「敦も中々できるようになったじゃないか。え? 太宰」と言っているのです*3。映画、出番の短い乱歩の扱いがべらぼうに上手い……。他にも色々ありますがあげるとキリがないのでこのへんで。

 

文豪ストレイドッグス』は救済の連鎖の物語*4です。そして『DEAD APPLE』はまさに「その先」の物語なのです。

 

「矢張り君には救済が必要だな」と太宰は澁澤に言います。この映画のストーリーの起点は太宰が澁澤を救済しようとしたことにあります(更に遡れば敦が澁澤に爪を立てたことですが)。TVシリーズにおいても、太宰は救済の起点でした。彼は芥川や敦を拾い、やがて鏡花を探偵社員に導きます。

しかし、『DEAD APPLE』のすごいところは、太宰の望みどおりに澁澤が救われるだけではなく、むしろ巡り巡って太宰が救済を得る物語である点にあります。いったいなぜそうなったのか? それは、この映画の中心にある光が織田作之助であるからです。

『DEAD APPLE』は龍頭抗争時に織田が孤児を救う場面からはじまる映画です。

話は逸れますがわたしはこのシーンがとても好きです。敦は自分に危害を加える大人を毀損することでからくも生存した子供ですが、この孤児(おそらく「黒の時代」に登場する咲楽)は大人に守ってもらえたがゆえに大人の命を犠牲に生き残った子供なのです。形の異なる「子供が本能的に生きようとすることの肯定」を描いたことによって、『DEAD APPLE』はひじょうにバランスの取れた映画になっていると感じます。

話を戻すと織田は死にます。正確に言うと彼は既に死んでいるキャラクターです。

 

織田「人を救う側になれ。どちらも同じなら、佳い人間になれ。弱者を救い、孤児を守れ。正義も悪も、お前には大差ないだろうが……そのほうが、幾分か素敵だ」

 

文豪ストレイドッグス』第16話「文豪ストレイドッグ

 

 

織田は太宰の人生の軌道を大きく変えて命を落としました。それは光と言えるでしょうが、同時に、ともすれば呪縛とも呼べる力です。太宰にとって善と悪が大差ないものであるように、光と呪縛もまた似たようなものです。『DEAD APPLE』は、織田が遺したものはそれでも光だったのだと、そうストンと思わせてくれる映画でした。

 

敦「少なくとも今は皆と街を守れたことを誇りに思うし、そうやって鏡花ちゃんや皆の隣で生きていく方が……幾分か素敵だと思うから」

 

これは『DEAD APPLE』ひいては『文豪ストレイドッグス』に散りばめられた無数の反復表現の集大成と言えるでしょう。完成披露試写に登壇した五十嵐監督は「織田と敦は“カラー”が同じだ」と語りました。そう言われてみると天衣無縫のエフェクトの色も敦と同じ青ですし、ずっと五十嵐監督はそのつもりで描いてきたのでしょう。もちろんこのカラーはそういった表面的な部分ばかりの話ではないはずですが。

 

『DEAD APPLE』は太宰が敦に救済される物語、すなわちこの世界に今なお息づいている織田作之助の光に出会う物語でもありました。先述したようにこの映画では芥川や鏡花のほうが敦の導き手であるわけですが、TVシリーズでは太宰→敦→鏡花であった救済の連鎖のラインが逆転して鏡花→敦→太宰になっているのです。

この映画はあくまでも敦が主人公の映画であり、事件を通じて過去と向き合わなくてはならなかった敦の克己がストーリーの主軸です。敦はただそれを成し、澁澤と戦っただけです。にもかかわらず敦のまったく意図しないところで太宰が救済の連鎖の輪の一員になっていて、しかも太宰がそれを口にすることはなく、ただ満足げに微笑するというのは、ひじょうに上手い塩梅の演出です。

 

 

佳い人のゆくえ

 

『DEAD APPLE』は敦の心のやわらかい部分に大きく踏み込む映画でしたが、それに伴い敦が太宰に依存している様子が色濃く描かれました。これはabuse*5されて育った子供としてひじょうに順当なものです。縋るものも信じるものもなく育った敦がようやく出会った「自分を信じてくれる大人」が太宰なのです。

第10話の船上で敦は「太宰さんは――探偵社は僕を見捨てなかった!」と鏡花を助けに走りますが、『DEAD APPLE』では太宰の不在を不安に思い「太宰さんならなんとかしてくれる」「太宰さんを助けなきゃ」と「澁澤の排除」という直視し難い任務を「太宰の救出」にすり替えています。やがてこの映画の中で、敦はひとつの克己を経てまたすこし自立します。そして以前よりすこし立派になった敦が、どこか織田に似て笑う。この流れがあまりにもうつくしいです。

敦は太宰を佳い人だと信じています。しかし、彼以外の人間はおそらく、太宰を佳い人だと(すくなくとも敦ほどには)信じてはいません。探偵社員としての信頼こそあれ、彼は「腹の底では何を考えているのか皆目見当がつかない」と思われているのでしょう。芥川はポートマフィア時代の太宰に拾われて、今でも彼が本質的に変わったわけではないことを知っています。鏡花も同じく、しかも組合戦の中で太宰から「たかが35人くらい何だ?」と聞かされています。国木田だって、太宰が目の前の命のすべてを救おうとするほど愚かでやさしい人間ではないことをわかっています。けれど敦は、敦だけは、幼子の刷り込みのように危険な無垢さでもって、「太宰さんは佳い人だ」と思っているのです。

そもそも太宰に依存して課題から逃げようとしている序盤の敦は言ってしまえば観客にストレスを与えかねないものですが、それがすべてこのカタルシスに昇華される構造は見事というほかありません。

太宰は澁澤にかつての己を見ていました。「一面の白と虚無。このざらついた世界」という澁澤の台詞がありますが、これは「黒の時代」の「この酸化する世界の夢から醒めさせてくれ」と対になるものなのでしょう。彼らは錆びついた世界を生きていました。

敦は澁澤という亡霊の孤独と退屈を満たし成仏させ、そして、生きて夜を越え朝日を浴びる太宰を、本人の知らぬ間に救ってみせるのです。

この成仏というのもひとつのキモで、敦は冒頭で織田の墓に手を合わせたのち、澁澤との闘いを合掌で終わらせています。寸分の隙もないうつくしい物語だ……。

織田の言葉を受け取った太宰は佳い人になろうとしました。彼のなりたい佳い人は、この現実では虚ろな幻想なのかもしれません。しかしそれでも、彼が救った少年の瞳には、彼のなりたい佳い人が映っているのです。今作ではすくなからずエゴで動いていたと思しき太宰は、敦の寄せる無限の信頼に応えて口を噤み、何かを噛みしめるように微笑するのです。

 

加えて、この映画では、虎を「すべての異能に抗うもの」と定義したことで、ある面においては敦の月下獣と太宰の異能無効化が対になるものになっているのでしょう。すごい……。

 


どうか生きて夜明けを

 

敦は「探偵社は人殺しをする組織ではない」と考えています。もちろんこれは原作からも伺える敦の考えなのですが、本作ではそれに加えてひとつの誤解が噛んでいると思われます。

冒頭の墓地、太宰は織田の墓前(前じゃないけど……)で「彼がいなければ、私は今でもポートマフィアで人を殺していたかもしれないね」と発言します。敦はこれを「太宰さんはポートマフィアを辞めて人を殺さないで済む世界で生きていけるようになったのだ」と解釈し、「太宰さんなら澁澤を殺さずに街を救う方法を授けてくれる」と考えているのでしょう。

 

鏡花「マフィアの殺しと探偵社の殺しは違う」

 

この答えは鏡花から出されますが、敦はそれを容易には受け容れられません。この台詞の前に芥川が「今ならお前の暗殺術で僕を殺れるぞ」と鏡花を煽っていますが、それを拒んだ上で彼女は澁澤の殺害を受容しています。鏡花が「探偵社の殺し」を明確に理解し遂行する意志を持っていることが伺えるシーンです。

 

この映画は「敦が過去に殺人を犯していた」という事実がすべてと言っても過言ではありません。

闇に生きる者や影を持つ者を圧倒的な光を背負い立つ人間が救済する作品は数あれど、『文豪ストレイドッグス』はそうではありません。主人公の敦もまた、自身の弱さを振り切れずにそれでも疾走ろうと足掻く土塗れの迷い犬に過ぎません。しかしだからこそ、鏡花をはじめとする彼の周囲のキャラクターたちは、彼に惹かれ救われてゆくのでしょう。

『DEAD APPLE』は、敦の持つ「闇の世界で人を殺して生きてきた者を救済する器」を補強するための映画、敦が本当の意味で主人公になるまでの映画、中島敦という少年の魂が持つ輝きを増すための映画でした。そしてその果てでこの作品の暗部そのものとさえ言える太宰が救われるのは、とてもとてもきれいです。

 

敦「いくら憎いからって、人質とか爆弾とかよくないよ。生きていればきっと好いことがある」

谷崎「好いことって?」

敦「うっ」

谷崎「だから好いことって何?」

敦「ち……茶漬けが食える! 茶漬けが腹いっぱい食える! 天井がある処で寝られる! 寝て起きたら朝が来る! 当たり前のように朝が来る! ……でも……爆発したら、君にも僕にも朝は来ない。なぜなら死んじゃうから」

 

文豪ストレイドッグス』第2話「或る爆弾」

 

 

この話は入社試験のための茶番であり爆弾も偽物ですが、『DEAD APPLE』では時計塔の従騎士の介入によりこの状況が再演されています。このへんは『シン・ゴジラ』のパロディっぽいですよね。

 

「だって爪を立てるだろ! だって僕は生きたかった! いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ!」と過去に直面した敦は叫びます。今ここで爪を立てなければ、明日の朝日を拝めない。過去の敦もクライマックスの敦もそういう状況にあります。

敦はこれまで何度も虎の再生能力に救われてきました。ですが、虎がもたらした最初の救済は再生能力ではなくその爪によるものだったのです。虎の爪は、再生能力とひとしい、あるいはそれ以上にプリミティブな「生きたい」という意志そのものなのです。

 

この一連のシークエンスをあんまり言葉で語るのは無粋だろうと思っているので、この話はこのへんで終わりにします。ひとつだけ言うと、「まよい、あがき、さけぶ だって僕は生きたかった」やトレーラーの「いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ」などすべてが秀逸なミスリードとして機能しているのには完全にしてやられました。まさかこんな場面の台詞だったとは。広告の勝利。いやはや恐ろしい……。

 

 

太宰の相棒

 

『DEAD APPLE』は太宰と中原がヤバい映画でした。林檎に因んだ「白雪姫」というモチーフによってあのような形で彼らの「目覚めのキス」が描かれたのみならず、あの場面においては両者が両者にとって王子様でもありお姫様でもありました。モチーフの使い方があまりにも上手い。

中原が汚濁を発露させることそのものが太宰への信頼の証明ですが、『DEAD APPLE』においては太宰もまた中原が汚濁を使うことを信じて策を講じていました。太宰が中原に傾ける信頼がああいった形で見られてほんとうによかったです。

 

中原「ビビッて帰っていい時はどんな時かわかるか」

辻村「……わかりません」

中原「ねえよ、そんな時は」

 

汚濁を使う直前との辻村の会話は、序盤で聞かされた国木田の台詞を思い起こさせるものでした。

 

国木田「勝てるかどうかではない。戦うという意志があるかどうかだ」

 

冒頭の龍頭抗争で「5分の遅刻」をする中原と「キッチリカッチリ予定通りだ」と時間ピッタリに到着する国木田は対比されていると捉えてよいでしょう。その上で、彼らはふたりとも目の前の戦いから決して逃げ出さない者であると示されているのです。

きっと彼らはだからこそ太宰の相棒なのでしょう。太宰が中原を信じていることを描写し、中原と国木田を対比させることで、今作ではスポットの当たっていない太宰が国木田に寄せる信頼をも浮かび上がらせる。呑まれそうなほど圧倒的な情報量です。

 

国木田についての余談なのですが、彼から分離した居能力の手帳の表紙には「妥協」と書かれています。エリスが「大好きよ、リンタロウ!」などと言っているあたりからしても、異能力者から分離した異能力は平素とは反対の性質で牙を剥くのでしょう。理想の反対は現実ではなく妥協というあたりが、実に国木田らしくてグッと来ます。それを彼は乗り越えたのです。

 

こちらは中原についての余談。龍頭抗争で仲間を喪った中原は、今作で龍の頭を破壊しています。物語の枝葉に至るまで構造が素晴らしい……。いやこれめっちゃすごくないですか? きれいすぎる……。

 

 

龍虎の運命

 

『DEAD APPLE』には龍が登場します。「龍こそが異能が持つ混沌、本来の姿だ」などと言われていますし、様々な要素が絡み合っているのでしょうが、そのうちのひとつの要素として、これは澁澤“龍”彦の龍なのだろうと思います。

 

澁澤「龍虎とはよく言ったものだ」

 

過去と向き合い虎を受け容れ、骸砦に到達した敦を見て、澁澤は嬉しそうに言いました。龍虎とはWikipedia曰く「強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人の英雄や豪傑のライバル関係を示す文言」だそうです。一種の運命なのでしょう。しかしこの説明を読んで思い出されるのは澁澤ばかりではありません。TVシリーズで壮絶な闘いを繰り広げた、芥川“龍”之介です。先述した太宰と中原と国木田のように、ここでもまた、澁澤と敦の運命を描くことで芥川と敦の間にある運命までもが補強されているのです。

 

色々思いを巡らせることのできるものですが、先日ふと思いついたのが龍は林檎の皮なのではないかということです。

これも先日気づいたのですが、ドラコニアの壁面はおそらく龍の細胞なのでしょう。舞台挨拶で榎戸さんは太宰たち三人の服は色であるとおっしゃっていたそうです。あの空間は骨と細胞の部屋、亡霊をおさめる生きた棺とも呼べるのでしょう。

 

 

運命を飼い慣らせ

 

「運命なんてただの影だ。臆病者だけがそれを見るんだ」――これは月村了衛『機龍警察 暗黒市場』*6に出てくる一節です。

 

敦「……そうか。心臓の鼓動から逃げられないのと同じなんだ。お前は僕の生きようとする力だから。今ならお前の声がよく聞こえるよ。お前の言葉がよく判る。……。同じ言葉をお前に返すよ。ぼやぼやしてると置いてくぞ。――来い、白虎!」

 

異能力とは何か。『DEAD APPLE』はそれに深く切り込んだ映画でした。これについてここであまり語ることはしませんが、わたしはこの言葉と共に前期ED(絵コンテ:梅津泰臣)を思い出しました。

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「例えば、自分の右手を見て『自分と右手』とは考えない。右手は自分の一部で、あって当たり前。僕と銃って感じじゃなくて、僕と銃は両方揃ってて僕なんだ」

 

キャプテン・アース』第23話「真夏の夜の夢」(監督:五十嵐卓哉、シリーズ構成・全話脚本:榎戸洋司

 

ここでもうひとつ、五十嵐監督・榎戸脚本オリジナルアニメの『キャプテン・アース』より台詞を引用します(ここに出てくる「銃」とは無限のエネルギーを発生させることができるとされるライブラスターというアイテムです)。この文脈は『文豪ストレイドッグス』とも繋がっていて、「銃」は「異能力」に置き換えられるものなのかもしれないと思いました。

 


林檎は何処

 

谷崎「国木田さん……なんで林檎なんです」

国木田「俺が知るか」

 

本当にそう。

 

「だからさ、林檎は宇宙そのものなんだよ。てのひらに乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ」

「あっちの世界?」

「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ」

「それと林檎になんの関係があるんだ?」

「つまり、林檎は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」

「でも、死んだら全部おしまいじゃん」

「おしまいじゃないよ! むしろそこからはじまるって賢治は言いたいんだ」

「わかんねえよ」

「愛の話なんだよ。なんでわかんないかなあ」

 

輪るピングドラム』第1話「運命のベルが鳴る」(監督:幾原邦彦

 

もちろん『DEAD APPLE』における林檎が『輪るピングドラム』と同じものであるというつもりはないのですが、示唆に富む赤い球体として林檎を扱う作品が他にもあるのだということで、参考までに引用しました。

 

原罪、重力、宇宙、地球……林檎が連想させるものは数多く存在し、そのどれもがきっと正しく林檎なのでしょうが、わたしが最も強く連想したのは生命、もしくはその輝きでした。

澁澤に果物ナイフ(これがただのナイフではなく果物ナイフと明確に台詞にされたことはおそらく意図的なものでしょう)で刺された太宰の背に広がる流血は、何度も描かれてきたあの林檎そのものでした。果物ナイフが刺さっているところまで完璧です。そして敦が澁澤に爪を立てたあの小部屋でも、円形に広がる血溜まりは林檎と言って差し支えないでしょう。

他にも、たとえばドラコニアルームの扉に描かれた龍の手に収められた赤い球体や、澁澤と敦が闘っていた羅生門の空間、芥川が羅生門を倒した溶鉱炉(?)や最後に内部で爆発を起こされ膨らんだ羅生門などもひとつの林檎でしょう。

ただ、二度に渡り血液によって林檎を示唆したことには、きっと大きな意味があるのだろうと思います。

ぜひ次に劇場に行った際にはあなたも林檎を探してみてください。

 

 

名前を呼ぶよ

 

澁澤に合掌を捧げ成仏させた敦ですが、それを見守る者は気が気じゃなかったことでしょう。このシーンでは、鏡花が口を動かす無音のカットが挿入されています。鏡花は滅多に人の名前を呼ばないキャラクターですが、おそらくここで彼女が叫んだのは「敦」なのでしょう*7。芥川もまた敦を「人虎」と呼び続けていますが、この先、原作のここぞというところで彼も敦の名を呼ぶのかも知れません。

 

ラックライフの歌う前期EDは「名前を呼ぶよ」でした。TVシリーズ第1話でも、太宰が敦の名を呼ぶシーンがオリジナルで追加されています。鏡花が敦の名前を呼ぶのは、アニメ『文豪ストレイドッグス』の(ひとまずの)ピリオドに相応しいエピソードと言えるでしょう*8

 

 

これ以上は収集がつかなくなるのでこのへんでこの記事は終わりにします。『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』をどうかよろしくお願いします。この記事がすこしでもあなたの目に映る『DEAD APPLE』を鮮やかなものにできたのなら幸いです。

ありがとう、『DEAD APPLE』。愛してる。

 

 

*1:文豪ストレイドッグス』第7話「理想という病を愛す」マジで神サブタイでしたね

*2:文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』パンフレット 榎戸洋司インタビューより

*3:これはななまるさん(@nanamaru)のツイートで気がついたものです。ありがとうございます。

*4:文豪ストレイドッグス 公式ガイドブック 開化録」榎戸洋司インタビューより

*5:虐待をはじめとする権利侵害の意。子供の権利侵害において虐待という言葉から受ける印象はどうしても物理的暴力に限定されがちだと思うので、筆者は好んでabuseという言葉を使います。読みにくくてすみません。

*6:少女革命ウテナ』(監督:幾原邦彦、シリーズ構成:榎戸洋司)に月村先生は脚本家として参加しています。変名ですが五十嵐監督の演出回もあります。『機龍警察』シリーズも名著なので、ぜひご一読ください。何度読んでも佳い本は佳い。

*7:これは猿タイヤさん(@tanasonnnu)のツイートで気がついたものです。ありがとうございます。

*8:五十嵐卓哉監督・榎戸洋司脚本の『STAR DRIVER 輝きのタクト』は「主人公が好きな女の子に呼び捨てにしてもらうまでの物語」でした。興味を持たれた方はぜひご覧になってみてください。