『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』感想 - 少年少女の福音
この文章は、製作者の意図を探ることを目的としたものではありません。
この記事には『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』および漫画・TVアニメ『文豪ストレイドッグス』、そして何よりspoon2Di vol.37のネタバレが含まれます。
細かい感想については既に別の記事を書いているのですが、spoon2Di vol37の五十嵐卓哉・榎戸洋司インタビューを読み、感情がどうしようもなくなったので、今この記事を書いています。spoon2Di vol37を読んでください。頼みます。
「人は誰かに『生きていていいよ』と言われなくちゃ生きていけないんだ! そんな簡単なことがどうして判らないんだ!」
(漫画12話・アニメ10話「羅生門と虎」)
「本気で思うのか 人虎 許可を出す「誰か」が居ると 他者の為 血を吐いて闘えば 誰かが『生きる価値あり』と書かれた判を捺してくれると思ったか?」
(漫画35話・アニメ23話「羅生門と虎と最後の大君」)
漫画『文豪ストレイドッグス』組合編までの最大のパンチラインはこれだと言って差し支えないでしょう。承認に飢えた迷い犬の生存戦略の叫びです。
人間は誰かに生きていていいよと言われなくては生きていけないという敦。敦を愚物と非難する一方で、自らもまた強さと太宰の承認に拘泥する芥川。敦と芥川は似た者同士でありながら相互不理解・同族嫌悪の状態にあり、ブーメランで互いを殴り合うような関係でした。『文豪ストレイドッグス』とは、未成熟な迷い犬たちが身の丈に合わない格好いい言葉で互いに説教をしあう話なのだと思います。その滑稽さと泥臭さがいとおしい。
「生き方の正解を知りたくて 誰もが闘ってる 何を求め闘う? 如何やって生きる? 答えは誰も教えてくれない 我々にあるのは迷う権利だけだ 溝底を宛もなく疾走る 土塗れの迷い犬達のように」
(漫画36話・アニメ24話「若し今日この荷物を降ろして善いのなら」)
太宰は鏡花にそう言います。生きていていいのかわからない、どうやって生きていけばいいのかわからないという青少年の普遍的な苦悩に対し、我々には迷う権利だけしかないが、裏を返せば迷う権利は誰もが持っているのだという着地は感慨深いものがあります。
そして『DEAD APPLE』は、間違いなくその先の地平の物語でした。
「だって僕は生きたかった! いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ!
二期の可能性はさておき、アニメ『文豪ストレイドッグス』は『DEAD APPLE』をもって一旦は幕を閉じました。その『DEAD APPLE』の台詞で最も印象深いものは、やはりトレーラーでも使われたこの台詞でしょう。
少年・中島敦は過去に殺人を犯していました。『DEAD APPLE』は、彼がそれと向き合う映画であると同時に、かつて中島敦の言葉に心を揺さぶられたすべての少年少女に贈られたエールでもあります。
「単に敦のことを言っているのではなく、普遍的な全ての子どものことであり、全ての人間のことであり。全ての罪悪感を抱える人たちのための台詞かなと」
我々にあるのは迷う権利だけ。それは確かに悩める少年少女に捧ぐひとつの救済です。しかし、『DEAD APPLE』はそれを更に掘り下げました。それは、人間的・社会的な救済である「迷う権利」の前段階として、動物的・本能的な生きようとする力である「虎の爪」がすべての少年少女に備わっているというメッセージなのだと思います。
他者からの承認、ひいては自己肯定感の薄い人生の苦しみは、敦を見てきた読者・視聴者には語るまでもないでしょう。敦に感情移入する人々が抱えているであろう日々を生き抜く苦しみは想像を絶するものです。トラウマは何度でも彼らを死に誘います。それを振り切るのは容易なことではありません。
けれど敦には爪があり、それが敦を生かしました。最も重要なのは、すべての少年少女は、時に無意識であったとしても、絶対にその爪をあらかじめ持っているのだということです。だから、あなたはきっと生きてゆける。『DEAD APPLE』は、生存戦略に苦心する少年少女にも、生きようとする力が根底には備わっているはずなのだ、だってあなたは今この瞬間まで生きてきたのだからという祈りなのです。
芥川は「苦しめる過去の言葉と貴様は本質的に無関係だ」と言います。この言葉は、「消えない傷、それが異能力」というキャッチコピーを踏まえると、更に輝きを増します。
「僕の中の解釈としては、芥川と鏡花は具体的に何をやったのかまでは知らないけれど、“敦も絶対になにかやっているはずだ”ということはうすうす分かっていると思っているんです。“そうでなかったらこんなに強い異能力を持っているはずがない”と。きっと忘れているのか無自覚なんだろうと二人は考えていて、だからこそいらだっている芥川と、できればそのままにしておいてあげたいと思っている鏡花という構造です」
芥川は、敦が途方もなく深い傷を抱えていることを、言われずとも察しています。異能力の強さは傷の深さです。敦と傷は切っても切り離せません。だからこそ、傷口を洗い膿を取り出すかのように、彼は敦の傷と加害要因を切り離したのです。
「“傷”を与えあうことは、人と人とのふれあいの基本的な形だ」
加害要因と被害者は本質的に無関係とは言っても、それでもなお消えない傷は被害者を苛み続けるでしょう。しかし、その消えない傷は、被害者が生き続けるための武器にも財産にもなるのです。敦は何度だってその傷で仲間と街を救い、「僕の街」という居場所を手に入れたのですから。
アビューズされてきた子供である敦は自己肯定感が乏しく、三歩進んで二歩下がるようにすこしずつすこしずつ成長しています。
爆弾魔の襲撃に巻き込まれた電車の乗客を無事に家に帰せば生きていてもいいということになるのではと考え、ポートマフィアであった鏡花と向き合い、彼らを見事守り抜いたかと思えば、アンの部屋では目の前の敵から逃げ出そうとしてしまいます。『DEAD APPLE』においても、フィッツジェラルド戦で大きく成長したかと思いきや、傷の奥底に直面する気配に大きく狼狽えて、どこか弱気で逃げ腰な姿勢を見せます。
それでも、彼はすこしずつすこしずつ、前に進んでいくのでしょう。彼はもう、あの頃とは違い、虎の爪を自分の右腕として受け容れているのです。
たとえ他者からの承認がなくとも、少年少女には虎の爪があります。それは生きようとする意志であると同時に、社会の中で承認を得るための手段にもなります。土塗れの迷い犬のように、まよい、あがき、さけび、それでもなお生きようとする彼の姿は、傷を抱えるすべての人の光です。『DEAD APPLE』を経て、彼はもう、そういうところに至ったのだと思います。
『DEAD APPLE』は敦が少年から青年になる物語とも言えるのでしょう。白虎を取り戻した彼の半人半虎は、大人めいた髭をたくわえているようにも見えます。
「僕は罪」
「僕は罰」
「知ってるかい?」
「罪と罰は仲良しなんだよ」
『文豪ストレイドッグス』は救済の連鎖の物語でした。救済の在り方のひとつは、罪と罰が同量であることだと思います。罰は救済へ至るための過程なのです。
子供時代の罪と向き合い、罪を抱えて生きていくことにした彼は、ひとつ決定的な階段を上ったのでしょう。この映画を通して、彼は少年時代に残してきた宿題を前に、その右手で鉛筆を取ったのです。
罪と直面したあの瞬間、敦は少年少女(そしてかつて少年少女だった人々)を代表して叫びました。敦の傷は「僕ら」の傷です。この映画を観て、主人公とは「“僕ら”の“僕”」なのだと思いました。『DEAD APPLE』は中島敦がジュブナイルの主人公として完成するまでの物語でした。彼は間違いなく「本編の主人公」です。
いつだって僕ら強くなれなくて
少しずつでしか進めないから
不安になるけれど
これからもきっと
大丈夫
僕らは生きる
ラックライフ「僕ら」
五十嵐卓哉は作品をギフトと、榎戸洋司は映画をラヴレターと呼びました。どこまでも誠実で、やさしくて、うつくしく、祈りに満ちた物語。
『DEAD APPLE』は、きっと僕らの福音なのです。