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『MIU404』感想 - 拳銃を置きステッキを持つ

放送開始から1年が経ったらしい『MIU404』ですが、Amazon PrimeやHuluでの配信もスタートしたようです。

いい機会なので、放送当時を振り返りつつ全話の感想を軽く記録しておこうかと思います。大筋について無粋に語るのみになりますが、こういうものを残しておくのも悪くないのかもしれないと、この一年で思えるようになりました。

 

※『MIU404』『アンナチュラル』のネタバレを大いに含み、『さよならロビンソンクルーソー』『空飛ぶ広報室』『逃げるは恥だが役に立つ』『獣になれない私たち』『コタキ兄弟と四苦八苦』についても触れています。また、各媒体の関連インタビューや『MIU404シナリオブック』、ディレクターズカット版への言及もあります。

 

※この文章は一個人の感想であり、正解や作り手の意図を探ろうとするものではありません。また、これを読むあなたの固有の鑑賞体験を阻害しようとするものでもありません。

 

#01「激突」

 

イントロダクション。正義を当たり前に信じる伊吹藍と、正義を詭弁だと思う志摩一未の出会い。2019年設定が妨害運転罪施行前という形でエレガントに描かれ、カーアクションも地上波ドラマとして十二分の見応えです。キャスト陣も魅力的で、画的な満足度はピカイチでしょう。

ただ、メインプロットが薄味というか、「気合いの入ったドラマだな」と思いながらも、1話を観た段階では刺さるところまで到達していませんでした。このドラマがどこへ向かうのか、この段階ではなかなか見えてきません。

 

『MIU404』を切実に愛している今となっては1話も楽しく、もう何度観たのかわかりません。

『MIU404』序盤はどちらかと言えば志摩寄りの視点で視聴者を牽引するドラマであり、志摩から見える伊吹が大きく変化して1話は終わります。ところが伊吹から志摩がどう見えているのかについては、そのスイッチが1話の中で細かく散らされていて、観れば観るほど味わい深いものになっています。

志摩が伊吹に言葉を重ね納得させること、伊吹だけではなく自分も他人も信用しないということ、伊吹に対して感情を顕にすること、伊吹の運転を窘めておきながらみずからも土壇場ではアクセルを踏み込むこと――それら一つひとつが伊吹を惹きつけます。互いへの認識の歩みが揃わないまま事件を追いかけ、最後の「超いい仕事じゃん」でようやくふたりが並んだと思しくなる。見事な軌跡です。

 

主立って描かれるわけではないながらも、陣馬・九重の401コンビも素敵です。最初は「キャリアのボンボン」と組まされることに難色を示していた陣馬が、いざはじまってみれば経験の浅い後輩を慮る先輩としてそこにいます。彼らも最初はまったく噛み合いませんが、志摩が機捜車をひっくり返す頃にはどうにかやっていけそうなコンビになっています。一連の橋本じゅんの佇まいは素晴らしいの一言です。

 

1話の題材である煽り運転は伊吹と志摩のマウントの取り合いにも対応するものですが、今こそ正義の話をしようという警察ドラマの『MIU404』において(この点については後述します)、最初に法改正を描いてしまっているのは心地よいバランサーになっています。ルールや現行法に無批判であれ、というわけでは決してありません。いろんなことがすこしずつでもよくなっていってほしいものです。ひとりでも多くのひとに間に合うように。

 

ちなみに、上述した1話の軽さについては、『「MIU404」公式メモリアルブック』などで企図してのものだったと語られています。てのひらの上で踊らされていたというわけ。物語の縦軸が弱くても毎週めちゃくちゃ面白ければ最後まで観ちゃうの、たしかにそれはそうだけどそれができるのはすごすぎるだろ……という驚きがありました。

 

#02「切なる願い」

 

1話の軽さに対して2話があまりにも面白すぎて腰を抜かしました。ありとあらゆる要素が対応して……という脚本の密度は、題材も相まって『アンナチュラル』8話を想起させます。

 

『アンナチュラル』との対応で言えば、連続殺人犯・高瀬と上司を刺殺した加々見の描かれ方は明確に異なるということに触れておくべきでしょう。ご遺体に寄り添う法医学者・三澄ミコトを主人公とする『アンナチュラル』において、高瀬の生い立ちが示唆されながらも突き放されたことは道理です。しかし、『MIU404』はそうではありません。

 

だけど「MIU404」では、逆に加害者の話を結構しているんですよ。それはなぜかというと、私の中での批評として「アンナチュラル」で切り捨てたものは、本当に切り捨ててよかったのか? という思いがあったからなんです。

【映画と仕事 vol.5】「逃げ恥」「アンナチュラル」の脚本家・野木亜紀子が生み出す高い“密度” 映画『罪の声』で原作にない創作シーンをあえて入れた意図は? | cinemacafe.net

 

上記のインタビューなどでは、野木亜紀子自身が『アンナチュラル』の批評としての『MIU404』に触れています。1話をイントロダクションとするなら、2話はまさしく「これからこれをやります」という『MIU404』の宣誓でしょう。

 

他の野木脚本作品にも共通することですが、家庭というものを掘り下げる回において、氏の対応関係の張り巡らせ方には眼を見張るものがあります。

 

仮に生きながらえていたとして、加々見の父親が息子へのアビューズを悔いることがあったのか、それは誰にもわかりません。『アンナチュラル』8話では久部六郎と彼の父親の安直な和解は描かれず、『コタキ兄弟と四苦八苦』における父子の描き方も然りです。『獣になれない私たち』の深海晶や長門朱里も、生家との不和を抱えつつ、それをどうにかしようという話にはなりません。「家族なんだからわかりあえる」といったような無責任なメッセージを徹底して回避しています。

しかしながら、田辺夫妻は息子を信じてやれなかったことを悔い、『アンナチュラル』8話の町田三郎の両親はいつでも待っていたのにと涙を流します。『コタキ兄弟と四苦八苦』の古滝二路は父親として娘を想い、『獣になれない私たち』の花井千春は晶や朱里と酒を酌み交わします。こどもを想いながらもどこかで何かがうまくいかなかった親を突き放すこともしません。

また、『逃げるは恥だが役に立つ』5話においても、津崎平匡の両親と思い出、そして田中安恵(やっさん)の離婚の選択の描き方は凄まじいものでした。家庭というものを描く上で、安易に善し悪しを定めず、それぞれの在り方を個として相対化し、今ここで生きている人々をすこしでも取りこぼさぬようにする。そういう意識が至るところから汲み取れます。

 

和解――それはなんともロマンティックな響きですが、万人に訪れるものではないでしょう。加々見の父親はただの一度の謝罪もなく亡くなり、田辺夫妻はもう息子に謝ることもできません。謝罪があったからといって、とてもそれを受け入れられないこともあります。けれどそんな彼らが出会い、信じ、謝る。待つ。今度こそ。一方に肩入れして他方を糾弾するのではない、親と子の双方への熟慮の察せられる脚本です。

直接的な親子の和解は、ある層の人々にとっては目に痛い嘘です。もちろんその機会を得る親子もいるでしょうが、それだけをドラマで描いては、彼らにご都合主義の夢物語として受け取られかねません。どうしようもないものに折り合いをつけながら生きてゆくしかない人々にも、どちらかといえば親の視点でドラマを観る人々にもやさしい。『MIU404』2話もその流れの中にあります。

 

2話は覆しようのない後悔を前提としている話です。戻らない時間と蘇らない生命。どうすることもできない喪失をそれぞれ抱えながら、それでも彼らはまだ生きていて、これから、どうか。そして液晶の前のわたしたちのこれからにも、どうか。切なる願い。

伊吹と志摩は生きています。生きて隣り合い駆け抜ける彼らが最後には向き合い、志摩は伊吹に言います。殴って悪かった。謝るべき相手に謝ることのできる彼らが描かれるのは、伊吹と志摩の物語である『MIU404』としても、この2話の締め括りとしても、絶妙な塩梅としか言いようがありません。

それに続く「お前は長生きしろよ」は、2話開始時点で横たわる死を思わせつつ、志摩の過去と今後の展開を示唆します。踏み込みあぐね、沈黙する伊吹。ふたりはまだこれからです。

 

また、この2話は映像面が特にお気に入りの回でもあります。

手前の物をナメつつ焦らした先でスッと引き、今後おなじみとなるメロンパン号や分駐所を見せるもったいぶったカメラワーク。シンメトリーなレイアウトとそれが崩れる瞬間の快楽。車内の場面が多い中でその制約がかえって魅力となる、冴えたFIXとテンポのよい切り返し。そうして辿り着く加々見の生家で彼の心情を反映するように揺れるカメラ。挙げればキリがありませんが、全体を通して映像の展開が素晴らしく、何度観ても飽きません。*1

 

#03「分岐点」

 

『MIU404』全体に通底するピタゴラ装置、そしてこの物語の縦軸となる久住や成川が登場する回です。伊吹と志摩の関係もなかよしと言って差し支えないムードになり楽しい一方、バシリカ高校元陸上部のこどもたちと周囲のおとな、そしてこの社会の未来のことを考えると、ひじょうに胸が苦しい話でもあります。

 

「たどる道はまっすぐじゃない。障害物があったり、それをうまくよけたと思ったら横から押されて違う道に入ったり、そうこうするうちに罪を犯してしまう。何かのスイッチで、道を間違える」

「でもそれは自己責任です」

「出た! 自己責任」

「最後は自分の意思だ」

「そのとおり。自分の道は自分で決めるべきだ。俺もそう思う。……だけど、人によって障害物の数は違う。正しい道に戻れる人もいれば、取り返しがつかなくなる人もいる。誰と出会うか、出会わないか。この人の行く先を変えるスイッチは何か。その時が来るまで、誰にも分からない」

(『MIU404』#03「分岐点」)

 

 

真夜中の分駐所で、志摩と九重が話します。

先に引用したように加害者になってしまったひとを掘り下げる『MIU404』において、これは重要な問いかけです。そしてこれはそのまま、1話2話を経た志摩が伊吹をどのように捉えているのかという話でもあるのでしょう。

「よかったな。誰かを殺す前に捕まって」「誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ」「加々見のこと信じてやる刑事が一人くらいいたっていいじゃんか」――伊吹藍というスイッチの作用を、志摩はもう知っています。障害物にぶつかりながらさまようパチンコ玉はやがて伊吹の手の中へ。それを見て笑う志摩。作品を象徴するモチーフと、それに対するキャラクターの配置を見事に表すシーンです。この街で暮らす人々がどう生きているのか。彼らがなんのためにこの街を走るのか。

 

ところがこの話、すぐには九重に刺さりません。最近のこどもが知識豊富であるという話を受けての「大人がバカなんですよ」。自分と成川らが似ていると思うか問われての「犯罪者と一緒にしないでください」。九重の現状の立ち位置を示す台詞回しが冴えています。九重はおとなとして自嘲しているわけではありませんし、犯罪者を自分とは違うと思っています。

こどもに限った話ではありませんが、選びうる選択肢がすくなかったり、選択の先にある影響を想像することが困難だったり、そういう立場に置かれている人間のある種の貧しさに心を寄せることを、九重はまだしません。彼らをそういう場所に置き去りにしてしまっている原因や、彼らの未来についても。

桔梗の語る少年法の話はまさにそういうものです。教育を受ける機会の損失。十年後の治安。桔梗は未来をまなざすキャラクターとして描かれ続けます。

 

すこし話が逸れますが、このシーンの伊吹の振る舞いも素晴らしく冴えた描写です。

ともすれば唐突にも思える「俺 隊長のこと好きだわ」ですが、「何か、俺の中の少年が隊長にビビビビビビっと……」によって、先の台詞の輪郭がはっきりします。

桔梗は成川たち(あるいは自身の息子のことも)を念頭に置いて話しますが、伊吹もまた、自分をたったひとり信じた蒲郡があきらめずに関わってくれたことで、道を見つけられた人間です。「俺の中の少年」は表面的な常套句ではなく本当に言葉通りの意味であり、伊吹はきっと、桔梗の理念が誰を掬い上げようとするものなのかわかっているのでしょう。それはかつての伊吹であり、伊吹がまっすぐな道に戻してやりたいと願う人々です。かつて見つけた道の先に4機捜で働く日々があることのさいわいすら、ひょっとすると感じているのかもしれません。

コミカルな台詞の応酬の中で「正しい道に戻れたこども」だった伊吹の姿がふいに浮かび上がり、「どっちかっつうと俺なみのバカだろ? そいつらは。なっ。だったら俺の言うこと聞いとけ」に収斂する。この一連の台詞回しは二重三重にテクニカルで、初見である程度は拾えるラインとのちの展開を知ることでより味わいの増すラインがあり、何度観ても面白いものになっています。

 

「走りたいなら、走る場所はいくらでもありますよね。河原だってグラウンドだって、一人で走ればいいじゃないですか。もっと違うことにエネルギーを使うべきです」

(『MIU404』#03「分岐点」)

 

九重はそう言いますが、成川たちは単に「走る場所」が欲しいのではありません。九重は自己責任を唱えますが、彼らに強いられたのは理不尽な連帯責任です。彼らが奪われたのは、部活動という居場所であり、青春という時間であり、競技という高揚であり、仲間とのつながり……河原やグラウンドでひとりで走ったって、奪われたものは取り戻せません。

ぼやく九重に、陣馬は「正しい道に戻してやらんとな」と言います。志摩がピタゴラ装置の話をしたとき、陣馬は眠っていました。あの場にいなかった陣馬の口から共通するフレーズが出てきたことは、九重にとって再考のスイッチとなったことでしょう。そこから連鎖するもの。

 

九重は、決して成川をどうでもいいと思って捕まえなかったわけではありません。

伊吹や志摩が追いかけていた生徒に真木カホリの危機を話したのに対し、九重はただ成川の名前を呼ぶだけでした。それは被疑者への寄り添いや踏み込みの甘さと言えるでしょう。それでも、何もしなかったわけではありません。走って、呼んで、追いつけなかった。最後に振り向いた成川を見送ってしまった。

 

1話2話と独立性の強い話が続いたのも相まって、3話の強烈なクリフハンガーは衝撃的です。

ラスト、ピタゴラ装置から落下するパチンコ玉に伊吹と志摩は振り返りますが、陣馬だけはそのまま歩き続けます。芝居なのかディレクションなのか、はたまた意図せざるものなのか。それはわかりませんが、陣馬の経験とスタンスが反映されたひじょうに好きなキャラクター描写です。

「放っておけ 一人 確保済みだなんとでもなる」九重にそう言ったのは陣馬です。けれどそれは陣馬がつめたいというわけではありません。有限の人生と無限にも思える仕事……そのバランスの難しさは『MIU404』の中で繰り返し描かれます。一つひとつの事件に入れ込みすぎない在り方を確立している陣馬がいることは、4機捜全体のバランサーとして、ひいては『MIU404』のリアリティラインの調節として機能しています。

 

「捕まってないもう一人は? 家に帰ってない子」

(『MIU404』#03「分岐点」)

 

ひとりのこどもに追いつけなかった、捕まえられなかったということが「家に帰してあげられなかった」という形で浮かび上がります。のちの9話でも一貫する台詞回しであり、『MIU404』ひいては野木脚本作品に通底するもののひとつとも言えるでしょう。帰れる家がない苦しみ。帰りたい家に帰れないさみしさ。居場所があるよろこび。

 

街をさまよう成川は久住に出会います。その出会いが果たしてどのようなスイッチになるのか。成川の安心できる居場所は、そこにあると言えるでしょうか。

 

#04「ミリオンダラー・ガール」

 

4話は『MIU404』で最もテクニカルなプロットだと感じます。中盤以降の展開、青池透子というひとりの女性、今なお危険にさらされる羽野麦、そこにある社会の反映、志摩の行動、伊吹の言葉。様々な要素が対応しながら見事に収まっており、鑑賞体験としては『アンナチュラル』1話にも似たものがあります。

 

「青池は2年前……逮捕されたけど、被害者でもあった」

(『MIU404』#04「ミリオンダラー・ガール」)

 

序盤の桔梗の台詞は『MIU404』のある側面を象徴するものです。先に述べたような『アンナチュラル』への批評としての『MIU404』を、きわめて直接的な言葉で語っています。

被害者でもあったという青池透子は、どのような人物だったのでしょう。それを追いかける形で4話は幕を開けます。

 

4話で描かれるのは戦いです。『MIU404』は全体を通して戦いの話とも言えるでしょうが、青池透子に関しては殊更それが強調されます。今まで勝ったことがないという彼女が、「最後にひとつだけ」賭け、願い、勝利をおさめる話。

伊吹は青池透子の瞳に喧嘩を売られているようだと言います。青池透子がたしかに戦っていたことを、その瞳から汲み取ってみせる伊吹。そして青池透子と目があったのは誰だったのか。ひじょうにきれいな展開です。

 

青池透子と目があったのは、ガールズ・インターナショナルの広告に描かれた少女でした。

恵まれない少女たち――そういった言葉によって想起されるイメージは、いったいどのようなものでしょう? どこか遠くの紛争地帯? どこか遠くの“途上国*2”?

 

映像ではほとんど視認できませんが、『月刊ドラマ』2020年11月号および『MIU404シナリオブック』を参照すると、以下のことがわかります。

 

102 ガールズ・インターナショナル・室内(夜)

 

同じポスターと、活動内容が貼られている。

『特に途上国の女性たちは貧しさの中、社会の底辺に置かれ、困難な状況にいます。』と大文字。

その前で女性が電話に出て。

『月刊ドラマ』2020年11月号、32頁『MIU404シナリオブック』152、153頁

 

貧富の差はもはや南北問題の形をしておらず、南南問題という言葉すらありますが、北が一様に富めるものかと言われればまったくそんなことはありません。グローバルサウスの概念が提唱されて久しいものです。世界中のいたるところに貧困は存在していて、国境を基準に塗り分けた世界地図でそれを語れる時代ではとうになくなっています。

青池透子の同僚たちは、勤め先が反社会的勢力の一部とは夢にも思わず、彼女とそう変わらない手取りで働いていたのでしょう。羽野麦は、幼稚園教諭の給料が日々の生活に十分なものであれば、ピアノバーでアルバイトをする必要なんてありませんでした。

では、青池透子はそもそもなぜホステスをしていたのでしょう? 作中では語られませんが、明らかに羽野麦が青池透子と対応して描かれている以上、それについても考えざるを得ません。この社会に根強く蔓延るジェンダーギャップ。縮まらない賃金格差。そこから生まれるリスク。

「Girls too.」――青池透子はそう書き記し、うさぎのぬいぐるみを空へと送りました。そこにあるのはノブレス・オブリージュではなく、深い共感です。それがこの国の現実です。この国で暮らす人々はみなその渦中にいるはずなのに、意識されにくい現実。

 

「自由を手に入れるには、必要なんだよ。戦いが」

(『獣になれない私たち』#03)

 

「ああ、そっか。いいんだって思えました。好きに生きていいんだ。自由になれるんだ。私たちは……自由だ」

(『コタキ兄弟と四苦八苦』#11「生苦」)

 

自由になれない誰かに向けた話は、『獣になれない私たち』や『コタキ兄弟と四苦八苦』などでも繰り返し描かれてきました。青池透子はそのバリエーションと言えるでしょう。

選びたい道を選べなかったり、そもそも何を選びたいのかわからなかったりすること。身動きがとれなかったり、意志に反して勝手に身体が動いたりすること。本当に生きたい自分の人生を生きられないこと。そういうことはこの世界でしばしばあり、そのイメージはピタゴラ装置ともきれいに合致します。障害物の数も形もひとそれぞれ。その中で、ある人々にはほとんど共通するような、自由を阻害するもの。

誰かの人生を目撃して、自分と同じだと思うこともあるでしょう。

そう、わたしの人生にもちょうどこんな形の障害物があった。それにぶつかってわたしはこの道に入り込んで……そこで見た光景は彼女のそれにすごく似ていて……物語の中で描かれた誰かの人生は、しばしばそういう形でひとの心を揺さぶります。自由になれないわたし。自由になれない、わたしたち。

 

実際の意図はわかりませんが、青池透子というネーミングについて、ひじょうに思うところがあります。

『獣になれない私たち』の晶と朱里について、野木亜紀子は「声を上げないために気付かれにくく、ドラマの主人公になりにくい」「全国にたくさんいるものの、見えにくい人」*3と語っています。

気づかれにくい、見えにくい――透明。この社会で透明にされている存在。それは「透子」に通じるものがあり、どうしてもそういうことを考えてしまう名前です。透明にされているわたしたち。

けれど、だから、青池透子が描かれたことには意味があります。

青池透子がガールズ・インターナショナルの広告の少女と視線を交わしたように、『MIU404』を観るわれわれもまた、そんな青池透子と目を合わせます。そしてこの現実で、人々が声を上げ、連帯する。Girls too. 青池透子の戦いをあなたは知っていて、あなたの戦いを知っているひとがいる。この世界にたしかに存在する、悲しいほどありふれた戦い。あなたはひとりじゃない。この現実にフィクションが存在し、フィクションが現実に影響を与える。その営みの力を切に感じます。――逃げられない何もできない。そんなの嘘だ。自由になれる。……わたしたちは。

 

「彼女の人生は、何だったんだろうな」

「何言ってんだよ志摩ちゃん、そんなん俺たちが決めることじゃないっしょ」

(『MIU404』#04「ミリオンダラー・ガール」)

 

そういう物語を描いた末に置かれたこの台詞は素晴らしいものです。

青池透子がこの現実にもたらしたムーヴメントはたしかにあります。しかし、たとえ物語の中であっても、生きたひとりの人間である青池透子を血肉なきアイコンにすることへの反駁は、作中で既になされています。悲劇のヒロイン? 弱者のヒーロー? それを決める権利は誰にもありません。あるいは、そういう不躾な視線が飛び交うことがあるのだとしても、伊吹がそれに加担することはないでしょう。

この台詞があるだけで、青池透子というキャラクター、そして何より彼女がレプリゼンテーションしているこの現実の人々が、作り手によって適切に守られていると感じます。

 

また、4話について語る上で、以下のインタビューについても触れておかねばならないと強く感じます。

 

だれも死なないでほしい。そうなるくらいなら逃げてほしい。それしか言えることがないです。

逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

自分の人生を生きるために、自由を手に入れるために、戦わなければならないようなこの社会がそもそもどうかしています。戦いが必要になること、あなたの戦いを知っているひとがいてくれること。その得難さを語るのと並行して、もし生命を落とすようなことがあるのなら、どうか逃げてほしいと、言わせてほしいと思います。

ピタゴラ装置のどの地点にいるかによって、必要な物語は異なります。物語の不要な人生もあるでしょう。声を上げること、連帯すること、あるいは逃げ出すこと。土壇場でおおかみを蹴飛ばすだけがうさぎの戦いではありません。逃げて生き延びることだってひとつの戦いです。

 

青池透子には、一緒に戦ってくれるひとがいませんでした。けれど、羽野麦に桔梗がいるように、わたしたちには『MIU404』があります。

青池透子のツブッターには、「なんか面白い番組ないかなー」「このドラマ面白い」というツブートが残されていました。*4そんな彼女が『MIU404』というドラマで描かれたこと。その意味に思いを馳せて、彼女とわたしたちの話を終えます。

 

他方で、4話のラストの伊吹は志摩に「死にたい奴」という言葉を投げかけます。青池透子の人生をジャッジすることを避けながら、志摩の本性*5に踏み込む。彼らはふたりとも生きていて、志摩は伊吹の言葉を肯定も否定もできます。にもかかわらずそれをせず、4話は終了。志摩はまだ、自分の深い部分に伊吹の立ち入りを許しません。

 

ちなみに、4話のディレクターズカット版は、放送版と比較して尺の変化はすくないものの、志摩が拳銃を突きつけられる一連の劇伴のつけ方が変化しています。コマーシャルが挟まらないことを前提としたその変化は、まさしく地上波放送作品のディレクターズカット版が世に出る意義のひとつでしょう。泣く泣くカットされた部分の復活も当然うれしいものですが、単なる拡張版に留まらないひとつの作品として制作してくれていることは、一ファンとして感無量です。

 

#05「夢の島

 

「働く」ということは野木脚本作品のひとつの柱と言えるでしょう。仕事の中で得られる喜びや悲しみ。大切な誰かのために稼ぐ食い扶持。仕事を充実させる姿が描かれる一方で、労働は罰だと割り切るような台詞もあり、さまざまな働き方が描かれてきました。

ですが、この社会の一員として働くことが人間扱いされないということであるのなら、それはあまりに悲しい。悲しいけれど、現実に存在しています。それも途轍もなく多く。

 

「私は、社長の下で働く人間です。人間、人間だから、嬉しかったり悲しかったり、間違えたりもします。もう限界って、思ったりもします」

(『獣になれない私たち』#10)

 

「働いているのは人間なんだから」*6や「警察官も人間です」*7など、それをさらりと言ってのけるキャラクターがいる一方で、『獣になれない私たち』の晶は全10話をかけてその言葉を絞り出すに至ります。

働いているのが人間だなんて当たり前のことを主張しなければならない社会がどうかしているのですが、それが蔑ろにされることが多々ある以上、声を上げてゆく必要があるのでしょう。

そしてそれは、ルーツが日本にある人間に限った話ではありません。

 

5話で描かれるのは、日本に夢見てやってきた外国人留学生/技能実習生(以下、技能実習生もほぼ同様の状況に置かれていることも鑑みつつ、5話のメインパーソンであるチャン・スァン・マイに準じて外国人留学生と表記します)とそれを取り巻く日本の現状です。

 

「ここはあなたを人間扱いしない! ひと山いくらで買って、いらなくなれば帰れという。捨てられる。ジャパニーズドリームは全部嘘だ!」

(『MIU404』#05「夢の島」)

 

外国人はこの国に来るな、ジャパニーズドリームはぜんぶ嘘だ――水森はそう叫びます。日本語とベトナム語で、同じことを繰り返して。彼がベトナム語を学んだのは、まさかそんなことを言うためではなかったはずでしょう。マイが日本語を学んだのだって、働くロボットなんて言うためではなかったはずです。それを言わせたのは何なのか、誰なのか。

 

もちろん、事実上の出稼ぎに来た外国人留学生のすべてがこのような状況にあるわけではないでしょう。伊吹の恩師・蒲郡は、市営の外国人支援センターを通じて、外国人労働者が孤立せずに生活できるよう相談役となっています。のちの8話においては、彼のバディであったフォンが、日本で目標金額を稼ぐことに成功し、故郷に帰ることになったと語られました。そういう事例もあるでしょう。

しかし、公共にせよ民間にせよ、そういった支援が全国に充実しているとはまったくもって言えません。そもそも、法令自体、実態に即しているとは言えない部分があります。

 

働いていたコンビニエンスストアの店長から「奥さんが怖がっちゃって」なんて理由で解雇されたマイは、この世界が大嫌いと喚き、伊吹に感情をぶつけます。

 

「何かもう……何つっていいか分かんなかったわ」

「……」

「国の罪は、俺たちの罪なのかな」

「熱でもあんのか」

「俺がごめんねって言っても、何十万ものロボットにされた人たちは救われないんだよ」

(『MIU404』#05「夢の島」)

 

この社会の構造が孕むおぞましい搾取。自分の生活が誰の尊厳を犠牲にして成り立っているのか。それを直視して引き受けるなんてことは、個人には重すぎます。とても背負えるものではありません。しかし、だからといって知らないままでいていいものなのでしょうか? ――みんなどうして平気なんだろ。見えてないんじゃない。

 

率直に言って、5話が取り扱っている題材はあまりに途方もないもので、45分間のフィクションとしての落としどころがきわめて探りにくい話です。実際、5話のプロットからは、「ここまではやらねばならない」と「ここまでしかできない」の葛藤が色濃く感じられます。

これは4話も然りですが、『MIU404』の凄まじいところのひとつに、社会と個人の描き方があります。個人の背後に存在する社会を克明に描き出し、社会に目を向けながら、個人の物語に帰結する。その視点の移動が、5話は特に印象的です。

先に引用した部分も、途方もない話をはじめたかと思いきや、6話の前フリとなるウイスキーのくだりを踏まえて志摩個人の話に収斂します。そうしてそこから明日の自分たちがどう働くのかという展開になる。あまりに見事な会話劇です。

話運びが見事であると同時に、それはひとりの人間がどのようにして生きてゆくのかということでもあります。水森が人材派遣会社を立ち上げたとき、どのような夢を持っていたのかはわかりません。みずからの手で社会をよりよいものにしたかったのかもしれないし、あるいはありふれた野心があったのかもしれない。けれど、この社会に蔓延る搾取と格差を直視したとき、事業に失敗し借金を抱えたとき、その借金を搾取する側の人間に返してゆくとき、たぶん、彼はひとりだったのでしょう。じゃあ明日の自分はどうしよう。そう個人の視点に立ち返らせてくれるひとが、きっといませんでした。

 

「生きてる限り、負けないわよ」

「……」

「なーに世界の悲しみ背負っちゃってんの。一人でなんて、持てっこないって」

(『アンナチュラル』#10「旅の終わり」)

 

この点に関して思い起こされるのは、『アンナチュラル』に登場する三澄夏代です。尽きることのない人間の死と憎悪。苦境に立たされこの世界の悲しみを想うミコトに明るく力強く言ってのける彼女は、本当にすごい。

この世界に存在する巨大で遣る瀬ない悲しみと対峙したとき、それでも歯を食いしばってただ生きているだけで負けてなどいないのだと言ってくれるひとがいるのは、本当に貴重な、得難いことだろうと思います。無力感や罪悪感に苛まれたとき、その悲しみをひとりで背負う必要はないのだと言ってくれたなら、どれだけ安心することか。

水森は、ひとりで、伊達眼鏡をかけるしかなかったのでしょう。

 

「いまさらどうして、僕一人がこんな罪悪感を抱かなきゃならない。文句があるなら国に向かって言ってください」

「うるせえ! 俺は今何十万人の話はしてない。マイさんっていう、一人の、人間の話をしてる。日本に憧れてやってきた、一人の、たった一回の、人生の話」

(『MIU404』#05「夢の島」)

 

相当ギリギリの台詞回しだと感じます。コンビニ強盗に参加した彼らは? 強盗こそしていなくとも、その動機がじゅうぶんにある彼らは? 工場などの見えにくい場所に追いやられている彼らは? 彼ら一人ひとりにも、たった一回の人生があります。それはいったい何が、誰が、慮ってくれるのか。

彼らの存在と人生を意識しながらも、プロットは水森とマイに収斂します。そうしなければ収集のつかない題材ですし、それは同時に、伊吹と志摩のたった一回の人生に誠実なプロットでもあります。水掻きのない手で有限の人生を生きる彼らとわたしたちに、せめて何ができるのか。精一杯の問いかけです。

 

水森が夜の公園で叫んだのは、彼ひとりでは抱えきれない罪です。駆け寄ろうとするマイを伊吹は止めます。共犯だと思われる。志摩が水森に告げた逮捕の可能性はブラフですが、水森がマイに疑惑の目を向けさせる形で自身の借金を返済したのは事実です。水森とマイは、共に戦う者にはなれませんでした。彼らが対等な相棒/恋人になれなかった原因は、彼らだけにあるとは言えないでしょう。

 

水森の告発により業務停止命令が出た監理団体には、バックに政界(ないしそれに近いもの)の存在がありました。放送版では落とされていますが、ディレクターズカット版には外国人労働者受け入れ拡大政策への言及があります。

他方で、これもディレクターズカット版で確認できますが、外国人問題は視聴率が取れないという話ののちに、「もっとこう……日本すごいみたいな、ないの?」という台詞があります。それを求めているのは誰なのか。言うまでもなくお茶の間の人々ですし、同じくお茶の間に放送されるドラマでそこに踏み込むのは本当に凄まじい。

国家と人間。社会と個人。その狭間を繊細なハンドル捌きで進む5話ですが、それらは切り離されたものではなく、たしかにつながっています。

 

マイが特定技能1号に挑んでいるという落としどころは、5話の最も凄まじい点かもしれません。『MIU404』は2019年設定のドラマですが、特定技能はまさにその2019年4月からはじまった新しい制度です。マイという個人の人生。たとえすこしずつでも変わっていくかもしれない、変えてゆきたい社会。未来。「大丈夫」。怒りも悲しみも織り交ぜた祈りと提唱として、ギリギリを見きわめようとする着地点だと思います。

 

「これから会う人、みんないい人だといいな」

「そううまくいくかよ」

(『MIU404』#05「夢の島」)

 

今すぐに願えるのはこのくらいかもしれません。その願いすら難しいものです。魔法のようにすべてがよくなることはなくても、それでも、この国のすべてのチャン・スァン・マイに、よい出会いがありますように。そしてその先に、よりよい社会がありますように。

 

#06「リフレイン」

 

何かと示唆されてきた志摩の捜査一課時代に触れる回ですが、その軸足はあくまでも現在に置かれていて、それが『MIU404』らしさを感じさせます。トリッキーな回想を多用する話でありながら、伊吹と志摩が並んで走る今だからこそ、今の彼らに必要だからこそ存在する話です。*8

 

6年前、志摩の相棒であった香坂が死亡。当時の同僚の刈谷から、志摩は今でも相棒殺しの異名で呼ばれています。事情を知るものはすくなく、それについても、志摩自身が事故死と割り切っているわけではありません。

伊吹は志摩に踏み込みますが、それは野次馬的な興味ではなく、そこにおそれがないわけでもありません。志摩の眠りの扉の先にある光景を予期しながら、並んでこの街を駆け抜ける今のために必要だからこそ踏み込みます。この人生を大事にするために。しかし結局そこには至らず投了し、志摩の告白に耳を傾け、そしてまったく新しい真実を掴んで見せます。

ともすればご都合的と言われかねないような回ですが、それも含めて2019年に伊吹と志摩が出会ったというピタゴラ装置のスイッチです。ピタゴラ装置という象徴的なアイテムひとつで6話を成り立たせているのは、鮮やかな手並みと言うよりほかありません。

ふたりの出会いがもっと早ければ、あるいは遅ければ、そもそもふたりが出会わなければ、香坂の助けた女性の住むマンションを伊吹が発見することはなかったでしょう。タイミング、巡り合わせ、スイッチ。そういう独特な手ざわりの話です。

 

6話について語る上で触れておきたいのが『逃げるは恥だが役に立つ』5話です。

漫画原作からドラマシリーズへ。再構成の見事な『逃げるは恥だが役に立つ』ですが、中でも5話は野木亜紀子の手腕が遺憾なく発揮された回と言えるでしょう。

奇しくも星野源演じる平匡が、森山みくりに幼少期の「地獄の思い出」を語る一幕があります。一度だけ行ったピクニック。険悪な両親。おいしいおいしいと必死に食べた瓦そば。それ以来、平匡は瓦そばを食べることができません。

そんな中、今日が母親の誕生日であることを思い出した平匡は、みくりに背中を押されて母親に電話をかけます。そうして聞かされた母親のピクニックの思い出は、平匡の記憶とはまったく印象の異なるものでした。平匡にとっての「地獄の思い出」は、母親にとってはいちばんおいしい瓦そばの記憶だったのです。

その日の晩、帰宅した平匡とみくりは瓦そばを作ります。平匡がみくりとピクニックに行ったこと。みくりが母親の誕生日を祝うよう後押ししたこと。母親との認識の差異が、決して平匡の「地獄の思い出」を否定してしまうわけではないこと。その上で過去に新たな視座が加わったこと。生きて、出会い、関わり、その先に平匡が再び瓦そばを食べる日があること。すべてが絶妙な塩梅で、とても繊細な話です。

 

放送版ではカットされてしまいましたが、ディレクターズカット版の志摩は、「これからもウイスキーは飲めないってこと」と伊吹に告げます。覆らない過去に新たな視座が加わったからといって、志摩という人間が何か劇的に変化するわけではありません。それでも、伊吹と志摩が相棒として共に働く日々は、この街をさまよう誰かと彼ら自身にとって、きっと大切な意味があります。

あのとき香坂に刑事じゃなくなっても人生は終わらないと言えていたなら……と志摩が夢想するように、ウイスキーが飲めないままでも人生は続きます。平匡が瓦そばを食べられたからといって、そればかりが至るべきゴールだなんてことはありません。あれからウイスキーを飲めなくなった自分の弱さ*9を抱え、罪を忘れず、傷と共に生きてゆくのも、ひとつの在り方です。

これもまた塩梅という言葉に頼らざるを得ないのですが、平匡のそれとは異なるニュアンスの、ひじょうに心地よい塩梅の物語だと感じます。

 

6話の秀逸な点は、これが九重にとってもターニングポイントであるということです。

 

『MIU404』は主役2人ではなく、彷徨える人たちに向けて。成川であったり、九重だったり、わりと若い人に向けて

『週刊文春WOMAN』vol.8 (創刊2周年記念号)

 

週刊文春WOMAN』vol.8の野木亜紀子インタビューでは、『MIU404』が「わりと若い」「彷徨える人たち」に向けた物語であると語られています。ここで挙げられているのは成川や九重ですが、そこには香坂も含まれているでしょう。

香坂の死の真相を知った九重は、陣馬の隣でぼやきます。

 

「俺が香坂刑事だったら……志摩さんに言えたかな」

「……」

「自分が使えないやつだって、認めるのは怖いですよ」

「間違いも失敗も言えるようになれ。バーンって開けっぴろげによ。最初から裸なら何だってできるよ」

(『MIU404』#06「リフレイン」)

 

本当に、そのとおりだと思います。間違えること、失敗すること、自分の至らなさを認めること。失望されたらどうしよう、見限られたらどうしよう。怖いことばかりです。ここで世代論をする気はありませんが、そういうおそれを持っているひとはきっとすくなくないでしょう。『MIU404』がそういう人々のためにあることを、本当にうれしく思います。

 

正義については、今ちょっと必要なんじゃないかという気がしているんです。(略)この数年の世の中の様子を見ていて、もう一度ちゃんと考えたり、表現しなきゃいけないんじゃないかという気がして。今こそ、正義を語ることに意味があるんじゃないかと。

『MIU404』の裏テーマは“正義を語る”だった 脚本家・野木亜紀子が裏話とともに明かす制作秘話|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

『MIU404』がちいさくか弱い正しさを歯を食いしばって積み重ねてゆこうとする話であることは終盤で顕著になりますが、その中にあって「大きな正義の前にそんな些末なこと」と証拠を偽造した香坂の行為は明確に批判されるものです。実際、かつての志摩はそれを糾弾し、香坂を突き放します。

けれど、そう言って間違えた香坂を、このドラマは否定しません。むしろ「彷徨える」「若い人」として、九重と並列して描いています。*10*11九重は香坂に寄り添って悩み、陣馬は九重に「間違いも失敗も言えるようになれ」と言います。伊吹は香坂を悼み、志摩は後悔を抱え、香坂を忘れません。

そういうところにこそ、このドラマの懐の深さがあると感じます。

 

#07「現在地」

 

7話はゲストキャラクターの多い回です。事件に深く関わる大熊やケンさんのみならず、家からはみ出した場所であるトランクルームの利用者として、そこに住む倉田、弁護士でコスプレイヤーのジュリ、家出少女のスゥとモア、猫のきんぴらが登場します。トランクルームの管理人や出前太郎の配達員も味わい深い役どころです。そしてそれは事件との関連というよりも、7話の題材上の要請であるという点が独特の面白さにつながっていると感じます。

 

2話の感想で野木脚本作品の家庭について触れましたが、7話もその延長にあると言えるでしょう。ただ、7話はそれに居場所や社会的身分の観点からアプローチしています。

7話で描かれるのは身元を明かさない人々です。大熊とケンさんは犯罪者ゆえに本名を使えず、他人の名義でトランクルームを借り、そこに違法に住んでいます。スゥとモア、ジュリは、ツブッターのアカウントを提示し、本名を明かそうとはしません。倉田ははじめ首を振るばかりで口を開きませんでした。

やがて倉田は運転免許証を、ジュリは弁護士の名刺を見せます。他者に提示できる身分のあるふたりですが、トランクルームに住んでいた倉田と職も家もあるジュリの差異は、彼らがどこまでこのトランクルームの人間模様にコミットしていたのかという形で表れています。

箱の中で閉じていた大熊と関わっていたのは共犯者だったケンさんだけ、自首すべきだったと感じ完全に閉じたわけではないケンさんと関わっていたのは倉田だけです。ジュリはきんぴらを通じて倉田と関わりながらも、ケンさんのことは知りませんでした。他者や社会との関わり方のグラデーションが見事です。それを観たわたしたちが何を知り、果たしてどこまで踏み込めるのか。

 

家出少女のスゥとモアはここに関わっていません。彼女たちが描かれた意味として大きいのは、家に帰らないことを肯定されるということでしょう。SNS上で「神」を探してその身を危険に晒しながら家に帰らない彼女たちが、(古典的な)家族がいちばんなどの必ずしも実態にそぐわない価値観から、わがままや反抗期だと説教されることはありません。彼女たちの家が(すくなくとも今の彼女たちにとって)帰れない場所であることは当然のように肯定され、ただ「神」待ちの危険性を心配され、ジュリの手引きで福祉につながります。

この描写は、7話のみならず『MIU404』全体のバランサーとして機能しています。『MIU404』の縦軸は九重と成川にあり、のちの9話で成川の家は彼がちゃんと帰れる場所として描かれます。だからこそ、青少年の帰れない家の描写の有無で作品全体の射程がまったく異なりますし、そこを取りこぼさなかったのは本当に大切なことです。

スゥやモアの帰れない生家が具体的に描写されることはありません。『獣になれない私たち』の朱里のそれも然りです。尺次第では描かれた部分なのかもしれませんが、個人的には、そこが描かれないことで「彼女より自分はマシだから我慢しなきゃ」と思うひとが現れないようになっているのがとてもやさしくて好きです。

 

「君たちに何かあったら、悲しい」

「そう。だからほんと……お願い」

「親がやばいか何かで家出中なんでしょう? 10代の女の子のための、サポートセンターに行きな。私の名刺も。何かあったら連絡して。悪い大人もいるけど……ちゃんとした大人もいる。諦めないで、まずは福祉や公共に頼る。君たちは、ひとりじゃない」

(『MIU404』#07「現在地」)

 

この一連において、サポートセンターを紹介するのがジュリである点も素晴らしいものです。伊吹と志摩は心から彼女たちを心配しますが、彼らが咄嗟にスゥとモアを公共や福祉につなげ、あまつさえ個人の名刺を渡し何かあったら連絡していいと言うのは困難でしょう。しかし、そこまで描ききるのは、彼女たちを登場させる上で果たしたい責任とも言えます。そこでそれのできる「ちゃんとした大人」がいてくれるのは、一視聴者として心底うれしく思います。

 

すこし話が逸れますが、スゥとモアがBABYMETALという実在するアーティストを愛好しているのもとても好きな部分です。安心できる居場所がなくても、好きなものやそれを分かち合う友人がいれば、つなぎとめられる生命があります。

昨今の情勢で、フィクションは不要不急なのかという問いが様々なところに突きつけられました。ですが、人間が生きてゆくために、それは決して不要なものではないでしょう。人間はただパンと水だけで生きているのではありません。『MIU404』もまた、誰かにとってそういうものになる作品です。フィクションの存在意義にさりげなく、しかし深く食い込む要素と言えます。スゥとモアにBABYMETALがあってよかったと心底から思うように、わたしに、誰かに、『MIU404』があってよかったです。

 

退職金詐欺をきっかけに妻と喧嘩してトランクルームに住んでいる倉田が、猫をきっかけに家に帰る、その塩梅も見事です。帰れるなら帰ろう、帰れないなら安心できる居場所を見つけよう。その両方が描かれるバランスは、とても心地よいものです。

のきんぴらの登場については、「まいごのこねこちゃん」を象徴するものなのでしょう。帰る場所のわからない迷子。

ランクルームという箱が舞台である点からシュレディンガーの猫も想起されますが、実際の意図はわかりません。こちらの読み方は、生きながら「死んでるのと同じ」と語るケンさんの台詞と対応します。

いずれにせよ、ハイテンションながらかなり混沌とした回である7話において、モチーフ性の強いきんぴらがいることでテーマがとっ散らからないようになっている側面はあると思います。きんぴらにも居場所が見つかってよかった。

 

7話でスポットが当たる陣馬についても触れておかねばなりません。

仕事に魂を捧げ、機捜車・分駐所・居酒屋を我が家と呼ぶ陣馬ですが、息子とその婚約者の顔合わせに参加するために仕事を休み、悩んだ末に警察手帳を置いて出掛けます。*12ところが、その道中で指名手配犯を見つけた陣馬は、父親よりも刑事であることを優先し、車から締め出されてしまいます。陣馬はかつて指名手配犯を追うために家族を車から降ろしたことがありました。それ自体というより、陣馬がそれを覚えてすらいなかったのが悲しいところです。車という家族の空間から排除されるシチュエーションは、居場所を失うということそのもので実にうまい描写です。

犯人を捕まえた陣馬は、伊吹と志摩に背中を押され顔合わせに合流します。挨拶のみで退散しようとする陣馬ですが、そこに居場所を用意してくれていたのは彼の相棒の九重でした。相棒という仕事上の関係が、単に仕事という居場所を作るのみならず、家庭での居場所を守ってくれる。ひとりの人間の連続した人生の描き方として胸を打ちます。

ここで陣馬が語る挨拶もまた素晴らしいものです。彼はたしかに18年前の出来事を覚えてはいませんでした。ですが、彼は自分の父親としての不甲斐なさを自覚し、息子に自分が何かしてあげたわけではなく、息子の特性は自分自身で勝ち取ったものなのだと言います。そんな息子を誇りに思うのだと。

6話の「誰の稼ぎで大きくなったと思ってやがんだ」も紛れもない彼の本音でしょう。けれどそれが家族に直接ぶつけられることはなく、居酒屋でこぼされる酔っぱらいの愚痴の域を出ません。飲酒というエクスキューズや「そういうこと言うから嫌われるんですよ」というカウンターによってバランスを取りつつ成立しているシーンですが、その先できちんと7話が用意されていたことには感動と言うよりほかありません。

ちなみにこの挨拶の一連は演出がひじょうに素晴らしく、陣馬が顔合わせの個室に入った段階ではあたかも彼の席が存在しないかのようなレイアウトになっています。しかし、挨拶を終えたのちにそこからカメラが一歩引き、ちゃんと用意されていた彼の席が映されます。脚本と見事に呼応する映像の展開が見事です。

 

2話の感想でも触れたのですが、7話について語る上で、改めて『アンナチュラル』8話に言及しておく必要があると感じます。

 

「自由なんてない。時効が終わっても俺たちの名前は記録に残る。家借りられる? まともな仕事に就ける? 誰かと話をして、一緒にご飯食べて笑って、そういう生活できる? あの時 自首してたら、8年くらいで出られた。今頃とっくに罪を償い終わって堂々と生きられた。普通に生活ができたんだよ。俺たちはもう、死んでるのと同じだ」

(『MIU404』#07「現在地」)

 

「誰かと話をして、一緒にご飯食べて笑って、そういう生活できる?」については放送版ではカットされていましたが、この台詞こそひじょうに重要なものだと感じます。

 

「死んでもいいやって思うときもあったけど、今、毎日仕事して、ご飯食べて、笑って、なんか、そんなことがすごく大事に思えて」

(『アンナチュラル』#08「遥かなる我が家」)

 

この六郎の台詞も放送版では落とされていたものですが*13、野木脚本作品において大切にされていることのひとつだろうと思います。

ご飯を食べる、誰かと笑う。生きる。その営みのよろこびが決して簡単ではないこと、その貴重さ、重要さがずっと描かれています。*14

逃げるは恥だが役に立つ』において、リストラされた平匡が安定感を損なわずにいられたのはみくりがいたからでした。『獣になれない私たち』では、その安定感を得るのが困難な人々の話をしています。そこで描かれる5tapはまさに飲食の居場所でしたし、『コタキ兄弟と四苦八苦』は「いつだってローマはここにある」と迷ったときに辿り着く居場所を描きます。

『アンナチュラル』8話の六郎は、自分の言葉を父親に語り、拒絶されます。生家は彼の居場所とは呼べません。けれどUDIラボは、ちゃんと彼の居場所です。それを手に入れられた六郎の台詞に対して、7話のケンさんの台詞は、それに手が届かない切実さを語るものです。

ひょっとするとそれが当たり前のひとも多いかもしれませんが、それを切実に語ってくれる野木脚本作品と、『MIU404』が好きです。

 

「大熊の不幸は、10年間ここから一歩も動かず、誰にも見つからなかったことだ。……さっさととっ捕まえようぜ、なっ」

(『MIU404』#07「現在地」)

 

ケンさんの部屋のそこかしこにあった暮らしの気配がない大熊の部屋で、伊吹はそう言いました。

飲食シーンは会話の間を持たせたり親密さを描くのにうってつけです。『MIU404』においては、機捜うどんがいい例でしょう。何気なく楽しいシーンですが、その根底には切実な、貴重なものがあります。先に引用したケンさんの台詞があることで、その一つひとつを改めて大切に噛み締められます。

他方で、それを得られない、さまよう誰かがこの街のどこかにいます。伊吹と志摩たちが見つけようと奔走しているのは、そういう誰かでもあるでしょう。

ラスト、伊吹はケンさんのロッキングチェアにメロンパンを供え、手を合わせます。*15ケンさんはもう亡くなっていて、家で暮らすことも、誰かと食事を共にすることもありません。ですが、ケンさんと会って話をすることのなかった伊吹がそれをして見せるのは、せめてもの……。

 

うどんでも、メロンパンでも。誰かと一緒でも、そうでなくても。この物語を受け取った誰かの食事が、生きるということが、すこしでも豊かになりますように。

 

#08「君の笑顔」

 

伊吹の過去と蒲郡をめぐる話であり、『アンナチュラル』と同一の世界であることがこの上なく活きた話です。

 

「毎日つまんねえし、先のことなんて何も考えられなかった。まあでもガマさんに出会って、そのうち俺も、刑事になってみようかなーって。まあ担任はバカにしたけど、ガマさんだけは、お前ならなれる、向いてるって。初めて道が見つかった」

(『MIU404』#08「君の笑顔」)

 

3話の感想でも触れましたが、伊吹もかつては道に迷っていたこどもでした。*165話では「フラフラフラフラしてたのを、まっすぐ走れるようにしてくれた」と語っていますが、それはまさにピタゴラ装置に重なるものです。正しい道に戻してくれたスイッチ。

それを蒲郡に語ったからといって、蒲郡が復讐を思いとどまることはありませんでした。

 

6話がピタゴラ装置の数奇な巡り合わせを描いていたのに対し、8話はその裏側のような構造になっています。4機捜に配属され慌ただしい日々を送っていた伊吹ですが、その間に蒲郡は妻を失い、そして。

事件が起きてから1ヶ月に渡り気づかなかったスイッチ。伊吹に何か責任があるとは言えません。それでも、伊吹はできることならなんだってして蒲郡を止めたかったでしょう。その可能性は最初からなかったのか? 蒲郡はないと言うでしょうが、誰にも何も言えないところです。

 

「ダメ! ダメ……鈴木さん、ま……まだ、まだ間に合うから」

「何が間に合うのよ? 果歩はもう死んだ」

(『アンナチュラル』#05「死の報復」)

 

復讐殺人が描かれる『アンナチュラル』5話では、『MIU404』で繰り返される間に合う/間に合わないに触れています。生命の喪失という不可逆の不条理。ご遺体から話がはじまる『アンナチュラル』ですが、「未来のための仕事」を描く中での「間に合う」には、『MIU404』と同じ通奏低音の響きがあります。なぜ死ななければならなかったのか。なぜ殺してしまったのか。なぜ、それが描かれているのか。

間に合いたい。彼らはそのために奔走しています。そして、間に合わなかった話は、まだ間に合うテレビの前のあなたのために。『アンナチュラル』2話、7話や『MIU404』2話、4話はそのテイストが強く出ていますが、8話をそこに並べていいのかわたしにはわかりません。もちろんその側面もあるでしょう。他方で、むしろ間に合わなかった誰かのためにあるのかもしれないとも思わされます。間に合わなかった経験を抱えながら、それでも生きてゆかねばならない誰かのために。

 

『アンナチュラル』4話は責任の押し付け合いの話でしたが、8話は責任の奪い合いの話でもあります。

『アンナチュラル』4話においては、死因の究明が責任の所在に深く関連するというメインプロットに対し、UDIに送られてくる脅迫状は誰に宛てられたものなのか神倉たちが押し付け合う一幕がありました。

桔梗家に盗聴器が仕掛けられたのは共同責任だと主張する伊吹に対し、その責任は自分に帰着するのだと志摩は言います。志摩の内省がまったく取り払われることはないでしょうが、彼らが沈み込みすぎることはなく、やんややんやと喧嘩しがら密行を続けます。伊吹は志摩を引っ張り上げたいし、志摩もそれを拒絶せずに乗っかる。彼らは早い段階から楽しいムードで過ごすようになっていましたが、5話までのラストの引きと比較すると、明確にそこからさらに踏み込んだ関係になっています。

『アンナチュラル』4話において、脅迫状の責任を最後に掻っ攫うのは中堂です。8話でそれをするのは蒲郡でした。お前にできることは何もなかった。中堂と蒲郡が対応する形で描かれているのは明らかですが、こうした細かい符合も(深読みの域とはいえ)かなり面白いところです。*17

 

復讐殺人を止められた中堂と、遂行した蒲郡。この対応関係は明確ですが、ミコトと伊吹のことを考えると、その残酷さがいっそう際立ちます。

『アンナチュラル』はタイトルの通り不自然死をめぐる話ですが、1話ラストで示されるように、この物語が戦っているのは「不条理な死」です。5話のミコトは復讐殺人を肯定する中堂に「納得できません」と言います。不条理とはまさしく納得し難いものでしょう。

納得は、伊吹にとってひじょうに重要なものです。一見すると突飛で非常識な伊吹ですが、納得したものには従います。納得いかねえ。それをぶつけた伊吹に、はじめて言葉を砕き道理を示したのは蒲郡です。投げる、受け取る、投げ返す。相互の関わり。キャッチボールはこのときの彼らの関係そのものです。いつの間にかできなくなっていたキャッチボール。

 

「戦うなら、法医学者として戦ってください」

「法医学者はもうやめだ」

「なら個人的な話をします。私が嫌なんです。見たくないんです。不条理な事件に巻き込まれた人間が、自分の人生を手放して、同じように不条理なことをしてしまったら、負けなんじゃないんですか。中堂さんが負けるのなんて見たくないんです。私を……私を、私を絶望させないでください」

(『アンナチュラル』#10「旅の終わり」)

 

「お前……バカだなぁ。殺しちゃダメなんだよ! な。相手がどんなにクズでも、どんなにムカついても、殺した方が負けだ。……無実でいてほしかったなあ」

(『MIU404』#02「切なる願い」)

 

ミコトも伊吹も、殺人を犯そうとするひと/犯してしまったひとに「負け」を語ります。あなたに負けてほしくない。ミコトは不条理に対して怒るひとであり、伊吹もまたそれに負けたくないひとです。

辞表を用意した中堂も、定年を迎え「俺にだって、刑事じゃない余生を送る権利はある」と語った蒲郡も、既に職業規範で不条理を断ち切ることはできなくなっています。そこに個人として介入することでミコトは中堂を止められましたが、伊吹にその機会はありませんでした。ミコトは中堂に「私を絶望させないで」と直に訴えますが、伊吹はそこに突き落とされます。彼らのキャラクター性に通じるものがあればこそ、その差異が悲しい。

 

復讐殺人を止められた中堂についても、「本当は止めてほしかった」のような作劇にはしていないのが、この作品の心地よさです。

殺したら負け、生命は取り返しがつかない。それをわかっていたとしても、誰かを殺したいと、殺さなければ帳尻が合わないと思ってしまった時点で、負けないことにも自分の未来にも価値なんてないでしょう。正義や倫理はただ冷たく、自分に寄り添ってはくれません。

それでも、そのとき間に合う誰かがいたなら、その誰かとの関わりが改めてエゴとしてぶつけられたなら、そういう巡り合せとして、あきらめるように思い留まることはできるかもしれない。そのとき立ち直ることはできなくても、その先で立ち直れる何かに出会うことはあるかもしれない。正しさを遵守する価値のなくなった世界で、再びそれを信じられることもあるかもしれない。

 

「ガマさん。何があってもあなたは、人を殺しちゃいけなかった。全警察官と……伊吹のために」

(『MIU404』#08「君の笑顔」)

 

自分のために思い留まることはできない。誰かに止めてほしいわけでもない。けれど、そのとき誰かが自分のためにやめてくれと言ったなら、たとえそれを望んでいなかったとしても、あるいは。そう思います。手錠をかけられて家を出る蒲郡に告げる志摩の台詞が、そういった点からとても好きです。

 

話を戻しますが、伊吹を絶望から引っ張り上げるのは志摩です。伊吹はそれを拒まず立ち上がります。ここで序盤の責任問答が効いてくるのがニクい構成です。彼らはもう、人生の浮き沈みを共に乗り越えようとするふたりになっています。

平素通りの入電。メインキャラクターに深く関わる事件は視聴者の心をより大きく揺さぶるものですが、その入電一つひとつに当事者がいて、彼らを大切に想う誰かもまたいるかもしれません。蒲郡の逮捕もその中のひとつです。

自分の人生を抱えながら、それでも彼らは走り出します。仕事も人生も、この不条理な世界で続いてゆきます。ひとつたしかなのは、志摩が伊吹をひとりにはしないということです。

 

#09「或る一人の死」

 

前回のあらすじがない『MIU404』ですが、9話は明確に8話から地続きの話として開始します。伊吹にとって蒲郡の事件は簡単に終わらない、時間を要するものであることがきちんと示されると同時に、いよいよ物語も大詰めに差し掛かってきました。

 

物語を積み重ねた先で飾らない言葉の一つひとつが力強いものになる……というのはシリーズ作品の醍醐味ですが、その意味で9話はいかにも最終回っぽい話です。

『MIU404』において成長*18を描かれるのは九重であり、それがこの上ない形で結実します。また、羽野麦とエトリについても物語の縦軸として引っ張られてきましたが、これに切り込むのもまたここです。率直に言うと、野暮なことを書き続けてきたこの記事ですら、わざわざ語るようなことのない回です。

 

そんな最終回的な9話ですが、その中にあって物語の着地点としては微妙な位置にいるのが伊吹と志摩です。

つとめて明るく振る舞う伊吹ですが、今の彼に余裕がないのはここまでドラマを観てきた視聴者には明らかですし、4機捜の面々にもそうでしょう。日頃の伊吹は周囲の様子をよく見ていますが、9話冒頭の伊吹は、「いつもどおり」をやろうとしすぎてかえってから回っています。分駐所に入る前に気合いを入れて自分を作っているのが察せられる綾野剛の芝居は、見事というよりほかありません。

 

「……俺たちが初めて組んだ日、当番明けに伊吹が言った」

――機捜っていいな。誰かが最悪の事態になる前に止められるんだよ。超いい仕事じゃーん。な。

「俺はあの時……感動したんだ。この野生のバカと走ったら、取り戻せるかもしれない。今まで助け損なった人たちの分も、誰かの未来をいいほうにスイッチさせて……救えるかもしれない」

「……止められるかな」

「止められるよ」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

志摩がこれまで伊吹に傾けてきたやさしさはもっと何気ないものでしたし、おそらく志摩は意図してマイルドにそれを出力していました。親しげなからかいや遊ぶような喧嘩の中で不意に差し込まれるそれを、伊吹はきちんと見いだし、受け取り、喜びます。

けれど、生涯に渡って抱えることになるかもしれない大きな荷物を持って絶望の淵でたたらを踏む伊吹に、志摩は出し惜しみしません。言葉も行動も惜しまず伊吹を慮り、伊吹をこの世界に、この道につなぎとめようとします。

感動も救いも、平素の志摩なら好んで口にしない言葉だろうと思います。それでも力強くそう言い、止められるよと祈るように断言します。志摩はもう、それほどまでに伊吹に心を傾けています。

 

「もしも、ハムちゃんに何かあったら、隊長に何かあったらゆたかに何かあったら、俺は許さない。……許さない」

「……安心しろ。俺も許さない。……そうなる前に、エトリは必ず捕まえる」

「……だな」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

『MIU404』でわたしが最も愛している台詞を問われれば、迷いなくこの志摩の台詞を答えます。しかし同時に、この台詞が彼らの関係の到達点ではないことこそが『MIU404』の素晴らしさです。

 

たしかに第10話まではうまく行っていますが、その伊吹と志摩の関係に共依存っぽさも感じてしまって、それではいけないという思いもありました。本来、バディは個々が確立してから成り立つもの。刑事だけでなく、あらゆる人間関係がそうですよね。その点、前の相棒に死なれた志摩と、恩人を止められなかった伊吹は、お互いに依存していて危ういのではないか。やはりもう一度、個人に立ち返るというか、ひとりひとりが自分の足で立つための最終回にしたかったんです。

脚本賞は「MIU404」野木亜紀子氏 ラストシーンは『連続ドラマでなかったら生まれていない』<ドラマアカデミー賞・インタビュー前編> | WEBザテレビジョン

 

さよならロビンソンクルーソー』や『獣になれない私たち』は明確に共依存への問題意識ありきで書かれていることがわかりますが*19、このインタビューを読む限り、『MIU404』はそういうわけではないのでしょう。

『MIU404』は伊吹と志摩の物語です。この世界の途方もない悲しみ、無力な自分。刑事として、人間として、そういうものに直面し、打ちひしがれ、どこまでも沈んでゆきそうなとき、隣にいてくれるひとがいる。それは本当に貴重なさいわいです。

けれどそれが、「あなたがいなくては生きてゆけない」のような形で終わってしまったら、(もちろんそれはそれでひとつの着地点ではありますが)さわやかなエンディングとは言えないでしょう。「あなたがいてよかった」から「自分の足で立って歩ける」までを描ききる書き手としての責任意識が感じられ、わたしはそれにすごく安心します。

ですが、「あなたがいてよかった」の段階は、人生にしばしば必要です。切実に。それのない回復が嘘に見えるほど落ち込んでしまう瞬間は、断りもなく訪ねてきます。

7話ではトランクルームという箱を舞台に「完全に閉じてしまった人間の手は掴めない」という話が出ますが、9話の伊吹にはまさにその危うさがあります。許さない。許さない。そう繰り返す伊吹の座る助手席は、運転席から遠ざかるかのようです。そんな状態の伊吹に、志摩が差し込める、届けられる言葉はなんなのか。

刹那の思考の末、志摩は言います。安心しろ。俺も許さない。これしかない、と思わされます。これしかない。将来的な自立や不健全な関係のことまで憂える余裕なんてない、そんな必死さだけが目を開かせてくれる瞬間。今の伊吹に志摩がいてよかったと、心底から思わざるを得ません。私見になりますが、このあたりのニュアンスは、あらかじめ共依存とそこからの脱却を狙っていたらなかなか生まれないもののように思います。

 

9話の志摩は本当にすごいことをずっとしています。このメロンパン号の中でも、羽野麦の行方がわからなくなったときも、伊吹を孤独の中に置き去りにせず、今これから何をするのか具体的な話をします。エトリを捕まえる、澤部を探す。まだできることがあると伊吹に示し、間に合わせようと共に走ります。

何よりすごいのは、志摩が伊吹と同じ温度の感情を持っていると感じさせてくれるところです。志摩は冷静沈着かと思いきや激情家の一面もあり、それでいて自身の奥底のつめたさを見つめてもいるアンビバレントなキャラクターですが、9話の志摩は伊吹のために、そのつめたさをほとんど忘れているのかもしれません。この点に関しては星野源の芝居が素晴らしいとしか言いようがなく、羽野麦を救出したのちに志摩が彼女と伊吹をまとめて抱き寄せるのはアドリブです。*20全編を通して星野源の熱の籠め方やそのタイミングは素晴らしいものでしたが、9話は傑出していると感じます。絶望の淵で喘ぐとき、自分と同じ温度で怒り、同じ温度で喜ぶ人間がいてくれるのは、本当に最後のよすがです。改めて、伊吹と志摩が相棒でよかった。9話を観ている間ずっとそう思いますし、あれから一年近く経つ今も、そう思います。ずっと。

 

「成川を見過ごしたのは自分です。皆さんが対処した他の生徒は、罪を償って、家に帰ることができました。あの時……成川に当たったのが自分じゃなければ」

「言ったろ。毎度そんなに反省してたら身が持たねえんだよ。俺たちの仕事は、できなかったことを数えるんじゃなくてできたことを数える」

「今ここで成川のことを忘れてこの先、素知らぬ顔で職務に当たれるのか、自信がありません。……お願いします」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

青く熱く語る九重とどっしり構えた陣馬ですが、どの言葉が誰にどう響くのか、役者の芝居を逃さないカッティングがひじょうに素晴らしいものです。「自分じゃなければ」は香坂の相棒が伊吹みたいなやつだったらと考えたことのある志摩に、「できたことを数える」は蒲郡に間に合わなかった傷を抱える伊吹に。そこで的確に反応する役者も、それを拾う演出も、すべてが噛み合うさりげない名シーンです。

 

3話や7話の感想でも述べたように、陣馬のバランス感覚は9話においても一貫しています。一つひとつの事件に入れ込みすぎては身がもたない。できたことを数える。それはたしかにそのとおりです。成川を自分の責任として引き受けようと頭を下げる九重の公私混同を、伊吹も志摩も嫌いじゃないと言いますが、陣馬だけはやや距離を置いています。それでも、成川の家を訪ねた彼は九重と共に頭を下げます。実に見事な塩梅です。

 

先の感想でも触れましたが、成川の家は彼が帰れる居場所として描写されます。さらりと存在を示される浪人生の兄は、彼が部活動という居場所を奪われてからの不安定さに無関係ではないのかもしれません。それでも、彼は母親の誕生日に電話を掛け、母親は彼を想っています。成川を家に帰れるようにしよう。『MIU404』がこれまで描いてきたことの先で収斂するプロットがうつくしい。

井戸というロケーションは野木亜紀子塚原あゆ子の話し合いから生まれたそうですが*21ピタゴラ装置から一度は転げ落ちてしまったひとを掬い上げるという行為にきれいに重なる素晴らしいシチュエーションでした。そしてその後の「ぜんぶ聞く」。この点に関して語ることは本当に何もありません。この上ないの一言です。

 

「でもどうして? どうして私が逃げなきゃならないの? 女だから? 力が弱いから? 桔梗さんだけが、そんなのおかしい、一緒に戦おうって言ってくれた。ナリくんもそういう人に会える。今は一人かもしれないけど、これからできる。だって、まだ18年しか生きてないんだよ? これからだよ」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

この不条理な世界で、自分がひとりぼっちではないこと。一緒に戦ってくれるひとがいること。伊吹と志摩に並行して、羽野麦と桔梗でもそれが描かれています。羽野麦が成川に語りかけた言葉は、成川を通じて、液晶の前の視聴者にまで届きます。これからだよ。

久住に見捨てられた成川は、何度も何度も、誰か助けてと叫びます。誰か。そこで呼べる名前を、彼はまだ持っていません。それでも限界まで上げた声は、伊吹の鼓膜を叩きます。その様子が物語を通して描かれることには、とても大きな意味があるでしょう。声を上げ続ければ誰かに届くかもしれない。耳を塞がなければ誰かに間に合うかもしれない。ちょっと大仰な表現に見えますが、それはまさしく、希望と呼ぶものだと思います。

 

「エトリ、捕まえたよ。遅くなってごめん」

「ありがとう……一緒に戦ってくれて」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

それはわたしが『MIU404』に伝えたいことでもあります。ありがとう。一緒に戦ってくれて。ありがとう。

 

#10「Not found」

 

エトリの爆死、久住の浮上。ドーナツEPの侵略。いよいよ物語も大詰めです。

 

まずはドーナツEPの話から。久住が利用していたというシェアオフィスは、久住の手によってドーナツEP使用者の巣窟になっていました。安価なドラッグにより気軽なハッピーを求める彼らに、伊吹は「今すぐ出頭して病院行くんだ」と言います。この一言の台詞の有無で作品の射程がぜんぜん違う、ということがたくさんある『MIU404』ですが、これはその中でも目を見張るものです。

覚せい剤やめますか? それとも人間やめますか?」というコピーが頻繁に目についた時代もあったそうですが、治療を必要とする依存症患者に「更生」ばかり求めて「回復」を顧みない風潮は、今なお存在しています。

依存症患者は人間で、病院は生きるための場所です。*22罰を受ける、罪を償う、そして更生する。そういう「世間」からの要請がまったく悪いとは言いませんが、依存症患者がこれからどう生きてゆけばいいのかを考える上で、依存症からの回復、そのための治療や援助は欠かせない観点でしょう。加害者や犯罪者に立体的に迫ってきた『MIU404』において、その視座を適切に示してくれる台詞は、本当に安心します。

 

「手段を選ばない相手と、どう戦えばいいんだろう?」

「俺たち警察は、弱い者を守りながら、どこまでも正しく、清廉潔白でいなくちゃならない」

(『MIU404』#10「Not found」)

 

「それでも、ルールは守んなきゃいけないって、いつも志摩が言ってる。じゃないと、正義のはずが不正義になるんだって」

「ふせいぎ?」

「正しくないってこと。……いやあ正義って、すんげえ弱えのかもしんねえなあ」

「弱くちゃダメじゃん」

「おいおいイテエとこ突くな。弱いから大切にして、みんなで応援しないと、消えてなくなっちまうのかもしんないな」

(『MIU404』#10「Not found」)

 

先述したように9話は積み重ねの到達として最終話的なムードの強い話でした。ここから先は作品のテーマが色濃くにじんだパンチラインが頻出します。

『MIU404』は巨悪を打ち倒すような話ではありません。一人ひとりがか弱い正しさを守ろうとする、その営みの困難の話に展開します。「どこまでも正しく」と語る志摩の絶妙な表情、かつて当たり前に信じていた正しさをゆたかに説きながらブーメランを食らう伊吹。彼らはもうその痛みを知っていて、それを引き受ける苦しみを背負っています。

 

「人間がやったことの証拠は必ず残る」

「そやったら俺は……人間やないんかなあ。人間やないもんを裁くんは無理やな」

「久住おめえ調子乗ってんじゃねえぞ人殺しが。安全なとこから人を操って人の人生ぶっ壊して……楽しいか?」

「だから言うてるやん。人間やないんやから、人間がどうなろうがどうでもええねん、あんたらかて、豚肉鶏肉食べてるやん。刺身なんて、あんなもんバラバラ死体やで。生で踊り食いしてるやんか」

「俺は今 人間の話をしてる。どんなにへたな屁理屈こねようと、お前は人間の形をしてるんだよ。人間にカウントされる以上、人間のルールにのっとって裁かれる」

(『MIU404』#10「Not found」)

 

久住はそんな彼らをせせら笑います。自身を人間ではないのかもと言う久住に、志摩は「人間の定義」のような胡乱な議論は持ちかけません。人間の形をしていること、人間にカウントされること。その潔い「人間の話」はひじょうに心地よく感じます。

この久住との問答は、志摩のキャラクター描写としても抜群に優れていると感じます。人間がどうなろうがどうでもいいと語る久住ですが、最終話の夢の中の志摩は、本当は他人なんかどうだっていいのだと言います。たとえば7話でスゥとモアを慮った志摩だってたしかに志摩ですし、ここで本性や素顔のような話をするのは本意ではありません。ですが、志摩自身の自認としては、そういう自分の一面を無視することはできないのでしょう。*23

志摩はキャッチできないブーメランを投げ続けてきたキャラクターです。では、彼が久住に語った言葉もまたブーメランなのか? 久住というラスボスの造形の提示、最終話につながるフック。それらの見せ方がスマートで、味わい深いシーンです。

余談ですが、チキンを丸かじりする久住がいわゆるフード理論から外れているのも、王道からすこし外し続ける『MIU404』らしくて好きなポイントです。何も食べないでもなく、食べ物を粗末にするでもなく、豪快にうまいと食べる。そしてそれが先に引用した人間問答に厚みを持たせていて、フード理論から外しつつも久住の不気味さを演出しています。

 

10話では、「誰かを裁きたくて仕方がない」人々、善意でデマを拡散してしまう人々の姿も描かれます。踊る民衆、笑う久住。おまわりワンワンは大変。

放送版ではカットされていますが、糸巻の「スティーブ・ジョブズAppleを設立したのは、二十一歳です」という台詞はひじょうにテクニカルです。ラスボスとなる久住が二十代の若者であること、多くのひとがスマートフォンを持ちSNSを利用する時代であること、その双方をさらりと示しています。

 

「新聞記者にとってペンが武器であるように、テレビの記者にとってはカメラが武器ですから」

「たしかに……さっきからずっと銃口を突きつけられてる気分です」

(『空飛ぶ広報室』#01)

 

空飛ぶ広報室』はまだ多くのひとが旧式の、いわゆるガラケーを使っている時代を描いたドラマでした。カメラ機能は搭載されていますが、そこで撮られた写真は、全世界への発信と今ほど深く癒着してはいません。稲葉リカの持つカメラの意味は作中で変化してゆきますが、最初は空井大祐の傷を妄りに暴こうとするものでした。尊厳の陵辱。ときには銃口よりも恐ろしいことさえあるでしょう。

『MIU404』はもう、その銃を当たり前に持ち、当たり前に掲げ、当たり前に打つ人間が街中にあふれかえる時代です。多くのひとはそれが武器であることすら自覚していないかもしれません。メロンパン号に乗る伊吹と志摩に突きつけられているものが果たしてなんなのか。それは悲しいかな、彼らが守ろうとする人々から向けられています。誰かに間に合うために選んだはずの道の先にある光景として、あまりに悲しいものです。

 

志摩がRECに「あなたは点と点を強引に結びつけてストーリーを作り上げてるだけだ」と告げたことにも触れておかねばならないでしょう。この感想だってそういうものかもしれません。能う限りの注意を払ったとしても、今のわたしに見えていないものも、見え方が著しく誤っているものもあります。そして、10話で描かれた人々を他人事として語ることもまた、自分で自分に許してはならない行為だと思います。せめてその痛みくらいは引き受けなければ、こんなものは書けません。

 

#11「ゼロ」

 

放送当時はサブタイトルが伏せられていた最終話。6話を経て軟化していた志摩の態度は根底の部分で再び硬化し、陣馬の意識は戻りません。九重は有給休暇を消化する日々を送り、蒲郡は依然として面会拒否。軽口を飛ばし合いながらもどこか底冷えするような伊吹と志摩。序盤のテンションコントロールが見事です。

 

伊吹と志摩が駆けつけた先で待ち受けていたのは、五輪の賛否をめぐる言い争いでした。お金持ちと無償ボランティアしか入れない東京五輪。それを盛り上げる「みんな」とは誰なのか。きれいになる街、さまようホームレス。もともと『MIU404』は全14話構成で、2020年4月からオリンピックの直前まで放送される予定でした。*24新型コロナウイルス感染症の流行により五輪を取り巻くムードにも変化がありましたが、2019年時点でのこの国の記録として、意義の大きい描写でしょう。

 

「組織はでかいし、上の上まで含めた全員が本当に清廉潔白かどうかは、俺はまあ何とも言えない。だけど末端の人間はこれでも真剣にやってんだ。ルールの中で、できるかぎりのことを」

(『MIU404』#11「ゼロ」)

 

『MIU404』が巨悪の打倒に向かわないことは度々述べてきましたが、ディレクターズカット版のこの台詞は直球でその話をしています。*25

 

『MIU404』は、末端の刑事たちを描くことで、「こうあるべき」という姿を見せるドラマにしようと思っていました。今までの刑事ドラマで「巨悪」を描いてきて、結果どうなったかというと、社会は変わらなかったし、権力側の不祥事を見ても「ああそんなもんか」といつの間にか慣れてしまってたんじゃないかと。それよりも、ルールは絶対に守る、公文書は破棄しないという、本来あるべき姿を描いていれば、それが当然だという空気になるかもしれない。

野木亜紀子が語る、脚本を書く時の矜恃 『罪の声』『MIU404』に通底する感覚 | マイナビニュース

 

物語が社会にどのように影響を与えられるのか。その試みはこれまでの話からも見えましたが、この点に関しても一貫しています。

プロデューサー・新井順子は野木亜紀子に「小学生でもわかるように」とオーダーし*26、実際、『MIU404』を親子で楽しんだ家庭も多かったようです。

これは私見ですが、「『MIU404』を観て警察官になりたいと思うこども」のことを、わたしはどうしても考えてしまいます。

いつか『MIU404』を再び鑑賞したとき、かつてあこがれた警察官の姿が自分と地続きに感じられるものであってほしい。思い出と現実のギャップや無力感を突きつけるようなものではなく、今の自分がどんなふうでも、警察官でもそうでなくても、この現実で生きる自分の身を引き締めるようなものであってほしい。そう思います。そしてそのとき、この物語で描かれたのが巨悪の打倒ではなく、生きていたならやり直せた香坂であることに、大きな意味があるのだと感じます。そうしてすこしずつ変わってゆく世界を、期待しています。

 

そんな『MIU404』最終話では、伊吹と志摩それぞれの「警察官」が揺さぶられます。刑事を志すきっかけである蒲郡に間に合わなかった伊吹にとっても、香坂の死を忘れずブーメランを食らい続ける志摩にとっても、刑事でいることは正しく生きるための前提です。外に出るのに服を着るのと同じようなものでしょう。

志摩はRECに指摘されてはじめて「やめたいのかも」と気づき、伊吹は夢の中の久住に刑事にぶら下がるしかないと指摘されます。苦しんで、疲れ果てて、もうやめてしまいたくなる。この物語が終わってしまう前に、彼らに必要な話です。

東京湾マリーナを歩きながら伊吹は言います。まーお互いさ、自由にやろうぜ。4話の感想で述べたように、野木脚本作品ではしばしば自由がトピックになります。しかし、ここにおける自由はむしろ否定されるものでしょう。

 

私自身、こうして生きていますけど、世の中は苦しいことばかりと考えているタイプです。とはいえ、そんな現実を前に、ただ悲観的になってうずくまったり、自分の苦しさを人と比べて不幸自慢したりしても仕方がありません。 (中略)人と繋がることで生きる苦しみが和らぐ経験は誰にもあるでしょう。そこにこそ「救い」があると思うんです。人間、簡単に解脱なんてできません。だから苦しいんです。ならば、皆で手を取り合って生きていくしかないでしょう。

『Voice』2020年3月号「ドラマで「苦しみ」を描く理由」

 

このインタビューは『コタキ兄弟と四苦八苦』についてのものですが、この苦しみに満ちた世界でそれでも手を取り合って生きてゆくしかないという考えは、脚本家デビューの契機となったヤングシナリオ大賞の『さよならロビンソンクルーソー』から一貫していることが窺えます。

 

「僕らの両手は小さくて、いつだって精一杯だ。だから、一緒に生きていく。手を取り合って、この世界で」

『さよならロビンソンクルーソー』/『月刊ドラマ』2011年1月号、36頁

 

この世のしがらみに疲れて無人島に行きたくなるときもあるけれど、行かない。この世界で他者と関わりながら生きてゆく。そんな『さよならロビンソンクルーソー』ですが、無人島のイメージは、11話で伊吹の言う「自由」に重なるものがあります。自分を苦しめるものも、信じたひとに裏切られることもない、自由な場所。

けれど悲しいかな、それは白昼夢のようなものです。無人島には行けません。

この世界に伊吹が存在することの貴重さを隣で見てきた志摩は、己の身勝手さを突きつけられ、刑事を逸脱しようとする自分を伊吹から遠ざけます。盗聴を途中でやめた伊吹は志摩との対話を拒み、単身、東京湾マリーナへ向かいます。この現実でそういう「自由」をやろうとした彼らは、結局うまくいかず、最悪の夢を見ることになりました。

 

彼らの見た最悪の夢は、単なる夢かもしれませんし、分岐点の先にある可能性でもあるでしょう。脚本ではそれぞれ独立した志摩の夢と伊吹の夢が続く形に読めますが、映像としては彼らの夢がつながっている、あるいは同じ夢を見ているかのような解釈ができるようになっています。この膨らみ方に集団制作物のよさを感じて、個人的にはとてもグッと来るところです。

夢の中である以上、ここでの久住は厳密には久住本人ではありません。その問答は彼らの不安や葛藤の心象風景に近いものでしょうし、久住は彼ら自身です。いくらメフィストフェレスと違法薬物、そしてピタゴラ装置の前フリがあるとはいえ、最終話にこんな形でキャラクターの心情を吐露させられるものなのかと驚きました。

志摩は自分の底の底を曝け出す瞬間に伊吹を眠らせたままにして、伊吹は飼いならせない犬に負けそうになる瞬間に志摩に殺すなと言わせます。それは彼らが互いに期待しているものであり、まさに夢でしょう。伊吹が目覚めたなら、志摩が目覚めたなら。たとえしばしば面倒でも、不自由でも、そのつながりによって避けられる最悪があるのでしょう。それを嫌というほど痛感しながら、彼らは目覚めます。

 

『MIU404』のすごいところはいくつもありあますが、クルーザー脱出から久住の捕物劇にかけてを7話のような明るいテンションで描ききった点は、エンターテイメント作品として本当に素晴らしいものでした。志摩がチャリンコで爆走するととても楽しいので、最終話でまた観られてうれしかったです。

最悪の夢からそこまで持っていく手腕もお見事で、陣馬の回復、九重のメッセージ、伊吹と志摩の頭突きが畳み掛けます。ダラダラせずにスカッと上向くテンションコントロールが最高です。全編を通して「これをやるとブレる」「ここがクドいとダサい」を徹底して避ける『MIU404』ですが、ここはその極致でしょう。そして「俺たちの愛車」。描かれ続けた地獄の先で、それでも、アイラブジャパン。

 

「面目のために未来を捨てるんですか? 久住をここで逃したら、新たな被害者を生んで、その被害者がまた加害者になる。面目や体面のためにできることをやらないのなら、私たちがいる意味って何ですか? 小さな正義を一つ一つ拾ったその先に、少しでも明るい未来があるんじゃないんですか」

(『MIU404』#11「ゼロ」)

 

この物語の最終話に必要な台詞が、この社会の未来を志す桔梗の口から語られるのも見事です。『MIU404』は巨悪の打倒には向かいませんが、ここで「未来」と対に置かれるのは「面目」「体面」です。「小さな正義」を取りこぼさないようできることをやる。「少しでも明るい未来」がその先にあるのだとしつつ、それを阻害するものとして挙げられるのが「面目」というのは、かなり批評性の高い台詞だろうと思います。

 

「こんな世界にしたお前を、俺は一生許さない。……許さないから殺してやんねえ」

「……そうだな。そんな楽さしてたまるか。……生きて……俺たちとここで苦しめ」

「そういうこと」

(『MIU404』#11「ゼロ」)

 

久住と対峙した伊吹と志摩の台詞と芝居は、今度こそ彼らはきっと大丈夫だと思わせてくれる素晴らしいものです。もしまた大丈夫じゃなくなっても、何度でもやり直してくれるでしょう。伊吹の言葉が伊吹のもので、志摩がそれに是を示すこと。志摩の言葉が志摩のもので、伊吹がそれに是を示すこと。彼らがみずからの足で立ち、隣り合っていること。この地獄のような世界で苦しみながら、それでも、彼らと共に、わたしたちが生きてゆくこと。

 

この記事の中で、わたしは何度か「わたしたち」という言葉を用いてきました。おいそれと使うにはあまりに重い言葉だと思います。ですが、『MIU404』を受け取った人間として、『MIU404』の話をするのであれば、それを避けるわけにはいきませんでした。「わたしたち」という言葉は、しばしば境界線を引き、「あなたたち」を生み出します。そういう気持ちが自分の中にまったくないとは今でも言えません。けれど、それでも、何度でも、ゼロから、「わたしたち」の語りを志したいと、『MIU404』はそう思わせてくれました。

ここにおける「わたしたち」は、彼らと共にこの世界で生きて苦しむ(かつて苦しんだ)「わたし」と「あなた」です。たとえ「あなた」がそれを望まないとしても、もし「あなた」が望むことがあればいつでもそれを待っている「わたし」でありたいと、そう思っています。

 

「また間違えるかもな」

「うん?」

「まあ間違えても、ここからか」

(『MIU404』#11「ゼロ」)

 

おわりに

 

「機捜のみんなが、守ってる街だね」

(『MIU404』#09「或る一人の死」)

 

羽野麦がそう言ったとき、伊吹と志摩は複雑な表情を浮かべます。守れたものと、守れなかったもの。ひとり一回きりの人生。人間の身で引き受けるには巨大すぎるもの。

 

2020年、コロナ禍の夏に合流した伊吹と志摩は、今日もあの街のどこかを走っています。

こんなことを言いたくはありませんが、自分がピンチに陥ったとき、彼らが直接そこに駆けつけることはないでしょう。虚構は現実に存在し、現実に影響を与えますが、けれどそうはいきません。

それでも、それでも、彼らがいてくれることは、それだけで勇気をくれます。他者を拒絶しない勇気、世界をあきらめない勇気、まだ生きていようと思う勇気。それはまさに虚構の、フィクションの持つ力です。1話の伊吹はおもちゃのステッキを手にしていました。生命を終わらせる拳銃ではなく、生きてゆくための勇気をくれるステッキ。

『MIU404』を受け取ったひとりとして生きていることは、彼らがこの街を守っている証明です。彼らの存在は、何度でもゼロからはじめられる旅は、わたしを今も守ってくれているから。

 

『MIU404』が、ひとりでも多くのそれを必要とするひとに間に合いますように。

 

 

 

Our journey will continue together from point zero.

*1:この系統の塚原あゆ子演出として『着飾る恋には理由があって』6話も挙げられます。こちらも素晴らしいドラマでした。

*2:この言葉も今日び危険なものですが、ここでは以下の引用部のために敢えて用います。

*3:『獣になれない私たちシナリオブック』

*4:彼女のツブートはどれも彼女の生活の手ざわりが感じられるすごいものなのですが、どのセクションが制作したものなのかわたしの知る限りではわかりません。すごすぎ。

*5:個人的には志摩のある側面をして本性という言い方をするのは避けたいところですし、脚本や芝居、ディレクション間の微妙な揺らぎを総合してフィルム上の志摩一未が成り立っていることを鑑みると、この点に関してここで掘り下げて語りたいとは思えません。

*6:逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類! 新春スペシャル!!

*7:『MIU404』#01「激突」

*8:個人的に、香坂の叫ぶ「俺は警察だ」だけはやや浮いていると感じていたのですが、これは脚本では確認できません。しかし、『MIU404』が警察という組織をどう描こうとしたのか考えたとき、危機にあるひとに間に合おうとするその姿勢とともにそれを叫ぶのは、公権力の乱用に触れる回として見ると一貫性があり、これはこれで好きです。

*9:志摩自身が「弱かった」と口にしたのでここでは弱さと書きますが、他人であるわたしが彼の強さや弱さを語ることには抵抗があります。己の言葉の至らなさが不甲斐ないばかりです。

*10:この点に関してはnogi noteの野木亜紀子コメントが素晴らしいので、円盤をお手元に置ける方はぜひご確認ください。

*11:青池透子と羽野麦の対応関係も然りですが、『MIU404』においてレプリゼンテーションを意識されている死者に必ず対応する生者がいることは、このドラマが間に合ったひとと間に合わなかったひとの双方に誠実で、とてもうれしく、切なくなります。

*12:このときの服を選んだのは九重ですが、相手に似合う服を選べるという関係は『アンナチュラル』6話のミコトと東海林が思い出され、プライベートの関係とは微妙に違う仕事上のパートナーの描き方が冴えています。

*13:『アンナチュラル』は8話のみディレクターズカット版が存在し、円盤にて確認できます。

*14:ここから想起されるものに、4話で描かれた青池透子の食事もあります。前科者として就職に難儀した彼女の苦悩と、誰にも見つからず生きながら死んでいるようだった彼らの苦悩を比較することはあってはなりませんが、それが食事という描写から並列して思い起こされるのも、ひじょうにやさしい作劇だと感じます。

*15:ディレクターズカット版で確認できます。

*16:蒲郡に出会う以前の伊吹の過去は、8話においても具体的には描かれません。「まだ終わってない」志摩の6年前とは異なり、伊吹のそれは蒲郡に出会い刑事を志したところでもう区切りがついています。それが見たいファンも多いでしょうが、そこを掘り下げない選択は物語としてエレガントですし、個人的には評価したいところです。

*17:ラストで志摩に託した伝言も然りですが、ディレクターズカット版の「今思えば、カウンセリングに引き渡す領域だったのかな」という台詞も、伊吹の関わりようのない遥か過去に見逃したスイッチへの言及となっています。

*18:何をもってどういった変化を成長と呼ぶのか、そのものさしが普遍的なものと言えることはないでしょう。進んで使うのは避けたい言葉ですが、ここでは敢えて使います。ちなみに、この点に関しては最終話オーディオコメンタリーでのトークも味わい深いものでした。

*19:週刊文春WOMAN』vol.8 (創刊2周年記念号)、『獣になれない私たちシナリオブック』

*20:https://twitter.com/nog_ak/status/1298467955835990017?s=20

*21:『「MIU404」公式メモリアルブック』

*22:緩和ケアや慢性疾患など、必ずしも完治を目的としているとは言えませんが、治るまで、治ってからも、あるいは最期まで、よりよく生きるための場であると考えます。依存症もまた、生涯に渡って回復プロセスを歩むものです。

*23:わたし個人としては、志摩自身がふと欺瞞に感じることもあるかもしれない一面もまた、彼の本当だと思います。志摩は嫌かもしれないけれど、志摩のことをそう捉える人間が世界にひとりくらいいたっていいから。

*24:『「MIU404」公式メモリアルブック』

*25:その上で、末端の人間ばかりではなく、ゆくゆくは警察庁で昇進するであろう九重の存在が見事なバランサーになっています。

*26:『MIU404シナリオブック』