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『HUGっと!プリキュア』若宮アンリを見つめて

この文章は、必ずしも製作者の意図を探ることを目的とするものではありません。

 

2018年2月から放送されている『HUGっと!プリキュア』は、そのテーマの取り扱いの難しさやそれが杞憂に終わった先進性から様々な形で注目を浴びました。それをひときわ盛り上げたのは、若宮アンリの存在でしょう。似合っているのだからとメンズ・レディースを問わずお洒落な服に袖を通し、ハーフという言葉をたしなめダブルであると主張し、ときには主人公・野乃はな(キュアエール)に厳しい言葉を投げかけ、終わりゆく自身の選手生命と向き合う……準レギュラーでありながら、1年をとおして濃密に描かれたキャラクターです。

 

そんな彼は、第42話「エールの交換! これが私の応援だ!!」(2018年12月2日放送)にてプリキュアに変身し、キュアアンフィニと名乗りました。

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ここでは、若宮アンリと『HUGっと!プリキュア』について考えてゆこうと思います。

 

本当は、この記事を書こうか、アップしようか、迷っています。わたしの不躾な視線は若宮アンリの尊厳を貶めてしまうのではないかという不安が拭えないからです。

 

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この言葉は作中のメディアに対して向けられたものですが、同時に他でもない我々にも向けられていると感じました。「プリキュアに変身した男性」「ジェンダーレス男子」「ボーダーレス」あるいは彼と愛崎正人の関係性の解釈として「プリキュアに登場したゲイカップル」……そういう(ともすれば手垢のついた)わかりやすいアイコンになることを、きっと彼は望みません。なぜなら、彼はこれらのどれでもなく、「若宮アンリ」という人間だから。

たしかに、現代社会を顧みれば、彼の存在はひじょうに意義深いものです。それを否定したいわけではありません。けれど、彼は我々の視線を批判し、カテゴライズを拒絶し、レプリゼンテーションを降りたこともある存在です。だから、彼について語ることには慎重にならざるを得ません。

この葛藤が滑稽なものであることはわかっています。彼はフィクション作品のキャラクターであり、生身の人間ではありません。けれどわたしは、彼を最大限に尊重したい。尊重させてほしいのです。そう思わせるだけの魅力が彼にはあります。

わたしはメインターゲットでもない一視聴者に過ぎません。きっとそのためできることは、物語に能う限り誠実に向き合い、心を揺らし、言葉を尽くすことだけなのでしょう。

前置きが長くなってしまいました。若宮アンリの話をします。

 

 

若宮アンリは、初登場となる第8話「ほまれ脱退!? スケート王子が急接近!」(2018年3月25日放送)にて、野乃はなに「応援の難しさ」を突きつけていました。

「君って無責任だね。がんばれって言われなくてもほまれはがんばるよ。応援なんて誰にでもできる。その無責任ながんばれが 彼女の重荷になってるんだよ」

「無責任」という言葉は、若宮アンリを解釈する上でひとつのキーワードになるものです。各種メディアが数多くの無責任な言葉で彼を形容してきたことは、8話の時点で察せられ、第33話「要注意! クライアス社の採用活動!?」(2018年9月23日)で明確に描かれます。

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自身の選手生命の早すぎる終焉と向き合いながら「もう少しだけ」「もう一度だけ」と悲痛に願う彼が、メディアでは「未来を約束された王子さま」と持て囃されている。また、彼は第二次性徴期を迎え、男と女、大人と子供の境界にあった自身の身体が急速に成人男性へ向かっていることを自覚しています。にも関わらず、「ボーダーレス」「すべてを超越した存在」などと評価されている。いつぞやの視聴者のように彼の超越性を評価する吉見リタからさえ、彼は距離を取っているのです。ましてや出歯亀(33話でオシマイダーになった彼の名前です。すごい名前だ)のような無粋なメディアへの感情など計り知れません。その事実は、彼を「無責任な言葉」に対して敏感にするには余りあるものでしょう。

 

 

そんな彼が、33話ではプリキュアを応援します。この心境の変化はすなわち、彼の中でプリキュアの存在が希望になったということなのでしょう。

彼はもともと、世界を変えることを諦めている現実主義者に見えました。マイノリティを頭ごなしに否定する態度も、彼の心中も知らずに訳知り顔で彼について語る態度も、事実無根の捏造報道は堅牢な作り笑いで退けましたが、他者の価値観を変えることについては基本的に諦観を滲ませていました。

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彼はしばしば「自分をつらぬく」ということについて語っていました。自分をつらぬくことは戦いです。それに勝利しなければ、自分をつらぬくことはできません。しかし、そんな戦いは本当はないほうがよいはずです。もっと健全な社会であれば、はじめから必要のない、悲しい戦いなのです。

 

33話では、若宮アンリのみならず、愛崎えみる(キュアマシェリ)の戦いも並行して描かれています。

彼女の最初の戦いは、家庭内での抑圧からの解放でした。彼女は古典的ジェンダーロールを押し付ける兄から解放され、「女の子らしくない」と言われていたギターを許され、だいすきなルールー・アムール(キュアアムール)と共に、ツインラブとしてアイドル活動をはじめることができました。

ある日、とあるTV番組で、彼女の作曲したツインラブの楽曲が「アイドルなのかロックなのか中途半端」という評価を受けます。ここからが、謂わば第二の戦いです。思い悩む彼女ですが、そんな彼女を救うのは、第19話「ワクワク! 憧れのランウェイデビュー!?」(2018年6月10日放送)で若宮アンリの見せた姿でした。

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19話で、愛崎えみるを抑圧する愛崎正人もまた苦しんでいることに気づいた若宮アンリは、オシマイダーとなった正人をハグします。

「ごめんね。けど ボクは君のためにボクを変えることはできない。誰に何を言われたって構わない。ボクの人生はボクのものだ! ボクはボクの心を大切にする。だって これがボク 若宮アンリだから。君も君の心をもっと愛して」

アンリが正人に語りかけたことは、えみるにもきちんと伝わっていました。彼女は世間からの評価に悩まされますが、いちばん大切なのは、誰に何を言われても自分の心を愛するということでした。そしてそのためには、だいすきな人が自分を好きと言ってくれるだけでじゅうぶんなのです。

他者の視線に疲弊し、クライアス社から勧誘され、自分の心のやわらかい部分を意識させられたアンリは「いっそひとりになれば」とまで言います。しかしえみるは、「それでも誰かと一緒にいたい」と返します。えみるに対して自己愛に基づく相互の尊重を教えたのは、他でもないかつての若宮アンリ自身なのです。彼の自分をつらぬく生き様はえみると正人を変えました。えみるはアンリに感謝し、正人はアンリに寄り添います。若宮アンリの戦いには、たとえほんのわずかでも、世界を変える力があるのです。だって現に、愛崎兄妹は変わったのだから。そして今度は彼らのほうがアンリに心を砕いてくれました。

 

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「たしかに 生きることがつらい時がある。ボクはひねくれてるし 誰かのためにがんばるなんてできない。でも…フレフレプリキュア! 輝く未来をボクたちに!」

この世界は様々な桎梏に満ちています。そんな中で、誰も彼もがみんなのために、世界を変えるために頑張れるわけではありません。自分のことで手一杯で当然です。しかし、しかしそれでも、プリキュアを応援することはできるのです。

若宮アンリは、世界は変わるという希望に気づいてしまいました。だからといって、その希望の実現を目指すのは容易ではありません。ですが、それでもプリキュアは諦めないのです。自分が世界と直接戦うことはできなくても、プリキュアを応援することはできる。プリキュアはそれを受け止めて、抱きしめて戦ってくれる。それこそが、自分をつらぬく戦いになることだってある。

どうしようもなくなったとき、人は祈るものです。祈りとはまったく無責任なものですが、もはやそうするしかできないことは往々にしてあります。プリキュアを応援することは祈りです。HUGっと!プリキュアは、痛苦に満ちたこの世界に、未来を信じて生きてゆくためのよすがとして、理想の探求者として、颯爽と現れてくれたのです。

応援の無責任さを批判していた若宮アンリは、野乃はなの素直さに敬意を払い彼女のことを認めます。そして33話では、疲弊の果てにあってなお、その目にプリキュアの姿がまぶしく映ってきらめいたからこそ、彼はプリキュアを応援したいと思えたのでしょう。

 

 

42話のサブタイトルは「エールの交換! これが私の応援だ!!」でした。33話でプリキュアを応援した若宮アンリが、今度はプリキュアに応援を乞い、キュアアンフィニに変身する話です。

彼は足の故障のために、ワールドジュニアカップが最後の大会になるだろうと予見していました。彼は33話でもジュニアカップの先の具体的な目標を口にせず、「ボクは勝ち続けたい」とだけ言っていました。氷上の王子としての幕引きのつもりで向かったワールドジュニアカップ。しかし現実にはそれすらも叶わず、大会当日の交通事故で復帰は絶望的となります。そしてリストルの導きで、一度はクライアス社の手に落ちてしまいます。

 

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キュアエールは改めてアンリに問います。大切なのは「自分の心」と「なりたい自分」です。そうして見つけたアンリが本当になりたい自分は「みんなを笑顔にできる自分」でした。

 

余談ですが、42話で思い出されるのは、『映画 ハピネスチャージプリキュア! 人形の国バレリーナ』です。本作に登場するつむぎは、ブラックファングの策略により足が動かなくなってしまったちいさなバレリーナです。プリキュアの視聴者の中には、実際に身体が不自由な子供もいることでしょう。愛乃めぐみ(キュアラブリー)も、彼女のために自分に何ができるのか苦悩します。つむぎの足が元通り動くようになったのか否かは暈されていますが、映画の結末では、つむぎは再びバレエの発表会で舞台に上がってほほえんでいます。

人形の国バレリーナ』において、つむぎの本当の願いは「友達がほしい」というものでした。ベッドから出られない生活が続くうちに友達の訪問の頻度が下がり、孤独になってゆくことこそが、彼女の本当の苦しみだったのです。42話においても、若宮アンリが「みんなを笑顔にできるのがうれしかった」と語るのは、物語としての決着をつけるための「ずらし」と言えるでしょう。

フィジカルの事情のために職業や趣味が制限されることはしばしばあります。残酷な現実と向き合いながら、実在児童への誠意と物語のカタルシスのバランスを慎重に探るのは胸を打たれる試みですが、同時に、やはり限界も感じさせられます。それでも、様々な職業を夢として描き、「なんでもできる! なんでもなれる!」と繰り返してきた『HUGっと!プリキュア』が、「なりたい自分」は特定の職業に依拠しているわけではないのかもしれないと示すのは、ひじょうに意義深い、必要不可欠なことだったと思います。

 

しかし、その「ずらし」が「ずらし」で終わっていないのが42話のすごいところです。

「悲しい時も 迷う時も みんなを励まし 未来へ輝く! そうだ それが…プリキュアだ!」

33話では「誰かのために頑張るなんてできない」と言っていた彼が、実はこれまでもずっと誰かの笑顔のために頑張り、彼自身もそれに喜びを感じていたのだと気づいたとき、彼はプリキュアに変身するのです。あまりにも秀逸な話運びに感嘆せざるをえません。

 

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プリキュアに変身しても、若宮アンリの足は治りません。彼は最初から「もう一度だけ」としか願っておらず、その「夢のようなもう一度」を手に入れただけです。

変身した彼はキュアアンフィニと名乗ります。彼が説明したように、アンフィニ(infini)とはフランス語で「無限」を意味する言葉です。

登場当初から、若宮アンリは物事の有限性を強く意識したキャラクターであったと解釈できます。8話で輝木ほまれ(キュアエトワール)にややもすると強引な手段でモスクワ行きの誘いをかけたのは、才能を発揮できる時間の短さ、突如その終焉が来る可能性を、その身でもって知っていたからでしょう。また、彼は第20話「キュアマシェリとキュアアムール! フレフレ! 愛のプリキュア」(2018年6月17日)で正人に「えみるの才能は本物だ。信じて」と語りますが、これも幼い才能の一刻も早い萌芽を願ってのことだと思われます。

リストルは去り際に「ひとときの夢に惑わされても 残るのは現実だ」と言い残します。これは決して軽くはねのけられるような言葉ではありません。奇跡のような楽しい夢はまたたく間に終わり、残るのは足の故障という現実です。しかしそれでも、若宮アンリのファンたちは、夢の余韻を味わうように笑っているのです。

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「そんな簡単に止められないよ。だってボクは若宮アンリだから」――キュアアンフィニはそう言います。たとえ氷上の王子でいられなくなっても、彼は若宮アンリです。たとえ目指した道が残酷な形で断たれても、それでも、それでも未来はきっと無限大だと信じる姿は、やはりどうしてもうつくしいものです。彼はきっと、いつまでも輝く若宮アンリなのでしょう。

 

 

42話は「男の子がプリキュアに変身した」ということで大きな話題になりました。しかし、この話の中では、それには一切ふれられていません。エールの交換と奇跡のような夢がただあっただけです。性別は話題にすら上っていません。 

42話に限らず、『HUGっと!プリキュア』は、Twitterなどでは特にジェンダー方面が取り沙汰されることが多かったように思います。確かに『HUGっと!プリキュア』のジェンダー観は、現代にふさわしいアップデートがされたものでした。

しかし、ジェンダーなどの問題はあくまでも表層の一要素であり、作品の目的そのものではありません。『HUGっと!プリキュア』で何度も繰り返されたのは、「なんでもできる! なんでもなれる!」「心のままに生きる」「あなたを愛し、わたしを愛する」ということです。これこそがすべての根幹である子供への誠意であり、結果的にポリティカル・コレクトネスにつながってゆくものなのです。

 

19話では、「男の子だってお姫さまになれる!」という台詞が話題になり、プリキュア本編を視聴していない人間のあいだでも物議を醸していたようです。
しかし、19話はジェンダー批判で終わる話ではありません。愛崎えみるやルールー・アムールを通じて、チャイルドアビューズの観点からも魅力的な話になっていました。そして何より、これらを自己肯定の物語、すなわち「自分で自分の心を愛する」物語として描いたことこそが、19話の本筋であり、ひじょうに素晴らしいものだったのです。

「なんでもできる! なんでもなれる!」「フレフレみんな フレフレわたし」と繰り返し伝えてきた『HUGっと!プリキュア』において、「男の子だってお姫さまになれる」「男の子だってプリキュアになれる」のは当たり前のことであり、個別の事例をひとつ出しただけのことに過ぎません。野乃はなが応援する「みんな」に「若宮アンリ」や「男の子」が含まれていることなんて、いまさら言うまでもありませんそこから排斥される存在なんて最初からいないのです。

 

若宮アンリの変身シークエンスでも、その重要なきっかけとなったのは「心」と「なりたい自分」です。 

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42話においては、この台詞の指す「体」とは「もうフィギュアスケート選手として復帰できない体」を指しているのでしょう。もちろん若宮アンリの物語上の役割のひとつが「古典的ジェンダーロールへの問題提起」である以上、受け取り手へのメッセージとして婉曲的にジェンダーの問題も包括していると考えるのも自然ですが、あくまでもそれは42話のメインテーマではありません。

「男の子がプリキュアに変身した」のは確かにすごいことです。前シリーズの『キラキラ☆プリキュアアラモード』でも、リオが(明確にプリキュアとは言われずとも)変身したときには同種の反応が見られました。それを否定したいわけではありませんし、できるはずもありません。

ですが、それがすごいことなのは、きっと我々がもう子供ではないからなのです。作中の彼らにとって、そしておそらくはプリキュアを観ている子供たちにとって、「男の子がプリキュアに変身する」のはそんな大層な出来事ではないのでしょう。というより、これはわたし個人の願いです。きっとそうであってほしい。

子供向けコンテンツは、「子供の常識」ひいては「未来の常識」に重大な影響を及ぼすものです。我々が「革新的である」ともすれば「説教くさい」と感じるのは、この世界に蔓延る様々な呪縛を知り、その常識の中で生きているからです。子供たちにとってのプリキュアのエンパワメントは、解呪ではなく、これから降りかかる呪縛を最初から跳ね返してゆく力になるものなのでしょう。

もちろん、悲しいけれど、子供の世界にもたくさんの呪縛が既に存在しているのかもしれません。ですが、そのとき大切なのは、政治的正しさのような難しいことよりも、まずは「自分で自分の心を大切にする」というきわめてシンプルな自己肯定です。ジェンダーなどの個別の事例が生きづらい子供の直接的な救いになっていることも多分にあるでしょうし、あってほしいのですが、それをもう一段階掘り下げることで(むしろそこからはじまっているのですが)、ひじょうに普遍性の高いエールになっています。

キュアエールは、みんなの自己肯定をはぐくみ応援するヒーローなのです

 

若宮アンリはきっと誰かの、あるいはわたしの希望です。彼はレプリゼンテーションを降り、他者の不躾な視線を批判しました。しかしそれでもやはり、彼はどうしても希望なのです。わたしには、簡単に彼を希望だと言うことはできません。それを言うためにこの記事を書いたようなものです。その一言のために、どうしてもこれだけの文章が必要だったのです。

わたしの葛藤にここまでお付き合いくださりありがとうございました。これはあくまでわたし個人の感情であり、他者の若宮アンリ観を否定する意図はありません。

この記事が、誰かにとっての若宮アンリに温度を孕ませられたのなら幸いです。

 

フレフレみんな、フレフレわたし。