小夜倉庫

ごくまれに更新される

『文豪ストレイドッグス』「DEAD APPLE」以後の「父の肖像」の在り方について

アニメ『文豪ストレイドッグス』31話「ヘルリス!」「父の肖像」は、その大胆なカットによって賛否を集めています。それについて、自分の心の整理のためにここですこしだけ語っておきます。

 

 

1.文庫版「BEAST」を踏まえて

 

「よく聞くんだ、少年」森は物静かな声で云った。「暴力に基づく権威づけ。恐怖による支配。それがどれ程効果的で汎用的かは、この私が誰よりよく知っている。故に断言する。そんなものを教育に使ってはならない。大人として最悪の蛮行だ。――本当は、君だってよく判っている筈だ。暴力を受けた当事者なのだから。だがこの腕時計の呪いが、君の目を曇らせている」

その目は真剣だった。

どこまでも他者のことを案ずる、理性ある大人の目だった。

朝霧カフカ文豪ストレイドッグス BEAST』文庫版加筆修正部)

 

今現在「父の肖像」について語る上で何より外すことができないのは、この文庫版「BEAST」の加筆修正部です。BEAST」において“理性ある大人”である森は、大人から子供への暴力を徹底して批判します。これはもちろん「BEAST」の院長を糾弾するものですが、同時に、本編において太宰が芥川に師として施した暴力、そして「父の肖像」でそれと対比されている院長が敦に施した暴力への批判でもあります。

もとより「BEAST」は「父の肖像」のifのような話でした。院長‐敦と太宰‐芥川の父子関係・師弟関係を対比させようとする話であり、「銃と花束」「毒と栄養剤」「爆弾と時計」という極端な可能性、自分に愛情が向けられているのかもしれないという想像力の話でした。

劇場版特典の段階での「BEAST」は「アナザー・父の肖像」でしたが、文庫版ではそれを更に進めています。「父の肖像」から欠落していた「暴力への徹底した批判」「虐待は如何な理由があれども虐待である」という視点が、上記の引用部によって付与されているのです。

 

つまり、文庫版「BEAST」は、朝霧カフカ自身が「父の肖像」を自覚的に批判していると捉えることができるのです。

 

この執筆時期は、「DEAD APPLE」公開以後であり、ひょっとするとアニメ31話の打ち合わせ時期とも重なっていたかもしれません。朝霧カフカがアニメの脚本会議に参加していることは各種インタビューからも明かされており、脚本協力としてEDにクレジットされています。そういった部分での影響は否定できないと思われます。

 

では、アニメ「父の肖像」がどのようなものになっていたのか、改めて追っていきます。

 

 

2.生きようとする力

 

まず挙げられるのが、「銃」と「注射器」という要素の排除です。

原作において、敦は院長の持っていた銃を「自分を罰するためのもの」と考えます。しかしその銃はポートマフィアに売ったのち、そうして得た金で敦に花束を買うためのものでした。彼はその志半ばで事故死してしまいます。

「銃と花束」は「毒と栄養剤」と重なり連動する要素です。院長の真意とは何か。敦は孤児院を出てなおずっと院長を恐れ、何度もトラウマに苛まれていました。しかし院長は、ひょっとすると敦を思いやり、守ろうとしていたのではないか。花束になるはずだった銃と向き合う(強制的に向き合わされる)ことで、過去の注射器の中身、ひいては院長の行動全体を再解釈する。これが原作「父の肖像」のひとつの柱です。

 

では、この「銃」と「注射器」はなぜ排除されなくてはならなかったのでしょうか。

これについて考えるためには、「DEAD APPLE」に触れざるをえません。

 

「だって僕は生きたかった! いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ!」

(『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』)

 

「どんなに逃げても虎はついてくる……」

「心臓の鼓動から逃れられないのと同じなんだ。なぜならお前は、僕の生きようとする力だから」

「今ならお前の声がよく聞こえるよ。お前の言葉がよく判る」

「ああ、判ってるさ。皆の生命が……燃えてる」

「ぼやぼやしてると置いてくぞ。──来い、白虎!」

(『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』)

 

様々なインタビューを通じて、「出し惜しみしない」ということが何度も語られています。後で整合性が取れなくなったとしても、今できる最高のことをやる。原作者も納得・許諾するのみならず積極的に参加した上でアニメ『文豪ストレイドッグス』が製作されていることは明白です。「DEAD APPLE」の時系列は組合編直後、アニメ第3シーズン以前であることが明言されています。

そして、「注射器」というモチーフは、そうやって製作された「DEAD APPLE」以後の『文豪ストレイドッグス』が使うわけにはいかないものです。なぜなら、敦が今日まで生きてきたのは、院長が敦を守り生かそうとしたから(あのとき打ったのは栄養剤だったから)ではなく、敦自身がその虎の爪でもって生きようとしていたからです。敦は敦の力でこれまで生きてきたのであって、今現在の生命を根拠に院長の愛(と呼びうる何か)を受け容れなくてはならないわけではないのです。「DEAD APPLE」はそういう話でした。

 

「(前略)もしそれがなければ そして自分が虎と知っていたら あの川縁で君は生存を諦めていただろうと 私は思うよ」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

この太宰の台詞もそれに伴ってカットされたと見てよいでしょう。アニメ版で太宰が言及するのは敦の生き方の部分のみです。彼がかつて地獄を味わったことは、鏡花やモンゴメリを救うに至る重要な要素です。しかし、彼の生命の輝きは、院長のおかげで得たのではなく、彼自身がプリミティブに持っていた力から生まれたものなのです。

「DEAD APPLE」以後として整合性を取るのであれば、「生き方」と「生存」は切り離さざるを得ないポイントです。

 

また、「DEAD APPLE」と「父の肖像」について、面白い符号がもうひとつあります。

 

「あの狂王が死んだ! 毎晩魘される悪夢の原因が消えたんです! 第二の誕生日にしたい位ですよ!」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

これもアニメではカットされた台詞です。この「第二の誕生日」は、「DEAD APPLE」ではマフィアの秘密通路の出口「0505」として昇華されています。中島敦の誕生日である5月5日です。

ここから考えると、「DEAD APPLE」における敦の「第二の誕生日」は、自分がかつて犯した罪(澁澤殺し)と向き合い、虎を従えた日ということになります。「DEAD APPLE」は「父の肖像」と異なるアプローチで敦の「第二の誕生日」を描いた映画なのです。

冒頭で特典版「BEAST」を「アナザー・父の肖像」と表現しましたが、「DEAD APPLE」は「Re: 父の肖像」ということもできるでしょう。それを受けて執筆されたであろう文庫版「BEAST」は「Re: Re: 父の肖像」といってもいいかもしれません。そしてアニメ「父の肖像」は、さらにその先のエピソードとして再構成されていると考えられます。

 

 

3.悲劇の相対化の回避 

 

アニメ「父の肖像」では、敦が院長の過去を知る描写もカットされています。院長の過去は警察の個人照会書に文章で記載されていますが、敦がそれを読むシーンはありません。読んだのかもしれないし、読んでいないのかもしれない。このカットについて考えます。

 

これまで敦は、みずからの経験とそこで得た傷を糧にして、鏡花やモンゴメリを救いました。そこにあるのは「歩み寄り」と「共感」です。

初対面のとき、敦は鏡花のことが理解できませんでした。彼はそれを正直に伝え、言葉にしてほしい、君のことがわかりたいのだと訴えます。相手に興味関心を持ち歩み寄ろうとする姿勢が鏡花に光を見せ、彼女は自分の気持ちを言葉にします。もうこれ以上、一人だって殺したくない。

モンゴメリを救ったのは敦の傷でした。被虐待サバイバーであるモンゴメリは敦のような恵まれた人は大嫌いだと言いますが、敦は自分の傷を彼女に晒し、彼女の痛みに共感します。彼女の言うところの「恵まれた人」の想像力は彼女を救いません。彼女はそれを受け取ることができない。しかし類似した傷を持つ敦の共感は受け取れます。そして敦は、同じ傷を持つ人がこの街にいるからこの街を救うのだと語ります。モンゴメリの傷については31話Aパートの「ヘルリス!」で再び描写され、「父の肖像」を補強する材料になっていました。

 

では、院長は?

かつて自分を暴力と恐怖で虐げ、今に至るまで夜毎悪夢として苛み続ける院長。彼もまた敦が共感すべき対象なのでしょうか。

院長の過去を知ったところに、院長が自分を懲罰隔離していたのは敦の月下獣を隠匿するためであったという過去の再解釈が加わり、敦は混乱します。

 

「でも君は知っておく必要があるだろう」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

これもアニメではカットされた太宰の台詞です。太宰は「許す必要などないよ」とも言っています。その上で、許す必要はないが知っておく必要はある、と。そうは言っても、「知っておく必要がある」というのは許しや再解釈への誘導として機能します。同情、共感、情状酌量。そういったものが求められているのではないかと考える理性もあるからこそ、敦は混乱してしまいます。

アニメでは、前述の通り院長の過去を敦が知る描写はありません。院長が虎の存在を周囲にも敦にも秘匿していたことに気がつくだけです。院長は自分を守ろうとしていたのではないか。しかしそれだけでも敦は十分に混乱します。いわんや原作をや。

 

太宰もまた彼なりに心にやわらかい部分を抱えた人間ですが、その頭脳は明晰で、魔神フョードルと渡り合う存在です。太宰の頭脳には誰も敵わない。そんな太宰が「必要」と言うのは、国木田が「べき」と自身の理想を掲げるのとは作用が異なります。たとえ人倫に悖る非道であったとしても、結果的にはそれが(ヨコハマや世界のために)正しかったのだというニュアンスを帯びかねません。このカットには、「父の肖像」が「正しい物語」として受け取られるリスクを回避するという目的があるのではないかと思います。

 

この改変によって回避されたのはそれだけではありません。それは「悲劇の相対化」です。

 

「先生はそこで地獄の経験をした 僕の過去が天国に思えるような苛烈きわまる暴力だ」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

虐待の連鎖、という言葉があります。たとえ程度が薄らいでいようとも、虐待は虐待です。現実において、己の悲劇は己のものであり、他者と比較して「自分はまだマシだ」と思う必要は一切ありません。

私見になるので詳しくは語りませんが、被虐待児をめぐる倫理観に基づくカットであったのだろうと推察します。地上波放送のTVアニメの視聴者には、そういった現実の渦中にいる人もいることでしょう。彼らのそれぞれの地獄は、誰とも、中島敦とも、院長とも、比べられるようなものではありません。

 

 

4.院長‐敦と太宰‐芥川の対比

 

原作「父の肖像」には、院長‐敦と太宰‐芥川の対比があり、アニメではそれがまるまるカットされています。ゴンチャロフ戦につながる重要な要素ですが、それについてはのちのち何か別の形でフォローが入るのでしょう。

 

これはひじょうに難しい対比です。なぜなら、既に文庫版「BEAST」ではっきりと否定されている「暴力の容認」につながりかねないものだからです。

文庫版「BEAST」にて、森は敦に腕時計を壊せと言います。「君は褒められる生徒になる必要などなかった」と。永遠に和解の可能性を絶たれた敦は時間を巻き戻しやり直すことを望みますが、森は「父」あるいは「師」としての院長を徹底して否定します。

「父の肖像」に芥川を登場させれば、ポートマフィア時代の太宰の“教育”を取り扱わざるをえません。太宰は「仮令どんな信念があろうと 彼が君にした事は許されざる最悪の蛮行だ」と言いますが、そんな太宰が芥川に施した暴力を批判できる人間は本編にはいないのです。「BEAST」の森はあくまでもパラレルであって本編とは異なります。本編の森ではその役割を果たせません。

「父の肖像」において院長‐敦と太宰‐芥川の対比が成立してしまうと、院長と太宰のあいだに相似の構造が発生します。しかし、太宰という作中に批判的視点を用意することがきわめて困難な存在と院長が結びつけられることで、既に文庫版「BEAST」で原作者みずから批判した「暴力の容認」への導線が引かれてしまうのです。

 

したがって、芥川の登場カットについては、文庫版「BEAST」以後の「父の肖像」としてそれをやるわけにはいかなかったのだろうと考えられます。また、上述した「銃」という要素のカットは、芥川および注射器のカットに伴うものであったのでしょう。

 

 

5.太宰の感情と織田の存在

 

カットだけではなく改変された台詞についても考えてみましょう。

 

「憎い相手が死んでこの世の何処にも居なくなったのに どんな顔でいれば善いのかわからないんです」

「君の感情だ 好きな顔をすればいい 私に云えるのは一般論だけだ 人は父親が死んだら泣くものだよ」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

「太宰さん、僕の、僕の中から溢れてくるこの気持ちは……この気持ちは、なんなんです……」

「奥底にある他人の気持ちを推し量れる人間なんて、いやしない。わかったふうな気持ちになるだけさ。私に云えるのは一般論だけだ。……人は、父親が死んだら泣くものだよ」

(アニメ『文豪ストレイドッグス』31話「父の肖像」)

 

この台詞の改変は、「敦君には必要な混乱だよ」のカットと裏返しの関係にあります。

 

組合編などで、太宰はかねてより構想していた敦‐芥川の新たな時代のコンビを現実のものとするために行動します。太宰は他人をコントロールすることに長けた人間です。「敦君には必要な混乱だよ」という台詞からは、敦の混乱が太宰の目論見の一部であるというニュアンスが感じられますが、アニメではそれが排除されています。

 

この原作の台詞運びでは、太宰は敦の感情の推移を理解しているにもかかわらず、それが最適と判断して突き放しているような印象があります。それと同時に、(太宰の望む)着地点に至るためのヒントとして院長を「父親」と呼称し、敦の思考を誘導し、落涙を促しているように感じられます。

ところがアニメでは、太宰は敦の欲する「答え」を持っていないとみずから告白します。

この台詞の背景には織田の存在があるのでしょう。織田が奥底で何を考えていたのかなんて、太宰にはわかりません。「DEAD APPLE」の完成披露試写に登壇した五十嵐卓哉は「敦と織田作はカラーが同じ」だと語りました。これを踏まえると、織田と同じカラーを持つ敦の胸の内を太宰が尊重しようとしているかのように捉えられます。「DEAD APPLE」において、敦は澁澤との戦いや「……見えますけど」という言葉で太宰の予想を超え、彼を驚かせていました。「DEAD APLLE」を経た太宰は、きっと敦の内面についてわかったふうなことは言わないのでしょう。そしてこれは、共喰い編ラストの「殺さずのマフィア か……」にもつながってくるものです。

 

 

6.普遍性の排除、彼らの物語、僕らの物語

 

「君は地獄にいた 地獄が君を正しく育てたんだ」

(漫画『文豪ストレイドッグス』39話「父の肖像」)

 

「君は地獄にいた でも、その地獄が君を正しく育てたんだ」

(アニメ『文豪ストレイドッグス』31話「父の肖像」)

 

 

この改変は、字数で考えればわずかですが、大きな影響力のあるものです。

「地獄」と「その地獄」は大きく異なります。「その地獄」は敦の、敦だけのものです。この改変によって、「父の肖像」の普遍性が薄れ、敦の物語として固有化されているのです。

先程もすこし触れましたが、現実に虐待(の連鎖)の渦中で生きている子供は存在します。それを踏まえると、この物語から普遍性を排除することは必要な措置であると思われます。この改変によって、「父の肖像」は「敦の物語」になったのです。

 

他方で、「DEAD APPLE」の「いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ」について、シリーズ構成の榎戸洋司はこう語っています。

 

「単に敦のことを言っているのではなく、普遍的な全ての子どものことであり、全ての人間のことであり。全ての罪悪感を抱える人たちのための台詞かなと」

榎戸洋司『spoon2Di vol.37』五十嵐卓哉×榎戸洋司インタビュー)

 

この発言からは、「父の肖像」の普遍性を排除しながら、「DEAD APPLE」のパンチラインを「全ての罪悪感を抱える人たち」のために普遍的なものとして用意していることが伺えます。

「罪悪感」とはここでは澁澤殺しが想定されていますが、これを「保護者は自分を愛していたかもしれないのに、それに気づかず、受け容れられなかった罪悪感」と読むこともできると思います。「父の肖像」の敦は、すくなからずそういった罪悪感も抱えていることでしょう。「父の肖像」を読んでただ感動するのみならず、共感や痛苦、あるいはささやかな違和感を覚えた読者もいるかもしれません。「父の肖像」はそういったリスクのある題材を取り扱っています。しかし「DEAD APPLE」の敦は、そういった読者をも代表して、「いつだって少年は生きるために虎の爪を立てるんだ」と叫んだのです。

だから、アニメ「父の肖像」はこういった形になっているのだと思います。

 

このへんについては別途ブログを書いているのでそちらを参照されてください。

on-a-wet-night.hatenablog.com

 

というわけで、できる限りフラットに「父の肖像」の改変について自分なりに整理しました。整理したのは自分の感情なので、たとえ意見が異なっていても、あなたはあなたの感情や解釈を大切にしてください。

最後にひとつだけ私見を申し上げておくと、わたしは「父の肖像」が尺のためにカットされたのだとは一切思っていません。むしろ、これらをカットしなくてはならないという状況が先にあったのだと思います。したがって、「ヘルリス!」や「十五歳」が父の肖像の再構成に影響を及ぼしたのだとは考えていません。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

この記事は、2019年5月19日にPrivatterに投稿したものを加筆・修正したものです

privatter.net