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『ゼロの日常』感想 - 演出・構成を中心に2

この記事は、作者の意図を探ることを目的としたものではありません。あくまでもそういう読み方が可能であるというだけの話です。

 

この記事には、単行本未収録の『ゼロの日常』TIME.35「しっかりしろ」までのネタバレが含まれます(2019年6月13日現在)。

 

現在週刊少年サンデーで連載中の『名探偵コナン』安室透スピンオフ『ゼロの日常』(新井隆広/原案協力:青山剛昌)について、以前も感想ブログを書いたのですが、そろそろまた腰を据えて語りたい話が溜まってきたのでまとめることにしました。

 

on-a-wet-night.hatenablog.com

 

 

1.“降谷零”の傘

 

『ゼロの日常』において、傘は象徴的なアイテムです。しかし、その意味するところは連載の中で変化しています。

 

以前書いたブログでは、「ATフィールドとしての傘」について触れました。説明が重複しますが、ATフィールドとは『新世紀エヴァンゲリオン』に登場するシールドであり、作中では「誰もが持っている心の壁」「自分と他者を隔てるもの」であることが匂わされます。

以前の降谷は当たり前に傘をさすキャラクターであり、その傘にハロを入れることで、彼らのつながりが演出されていました。ハロを拾うまでの物語は、ハロを傘に入れるまでの物語なのです。

 

しかし、2018年11月からおよそ2ヶ月間の休載を経て、ある変化が起こります。

それは「降谷零は傘をささないキャラクターである」という描き方の変化です。

『ゼロの執行人』の彼は、水も滴るいい男として、雨が降っていても傘をさしていませんでした。おそらくはそれを受けての変化だと思われます。

連載再開となったTIME.24(単行本3巻TIME.4)「ワンちゃん!!」では、玄関の傘立てに2本の傘が描かれます。黒い傘と、透明ないし白の傘。

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『ゼロの日常』3巻53頁

 

遡ってTIME.2「It’s a piece of cake」では、3着のシャツがそれぞれ降谷零・安室透・バーボンを象徴する形で描かれていました。

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『ゼロの日常』1巻42頁

 

彼は様々な場所でトリプルフェイスとして紹介・宣伝されているキャラクターです。そんな彼を描写する上で、3という数字はきわめて重要な、彼のそれぞれの顔を示唆するものです。だからこそ、2は意図的な欠落を意味していると考えてよいでしょう。
安室透もバーボンも傘をさすけれど、降谷零はささない。『ゼロの日常』においては、そういった解釈・演出がなされるようになったのでしょう。

 

それをさらに補強するのが、TIME.28(単行本3巻TIME.8)「ちょっとな…」です。

 

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『ゼロの日常』3巻117頁

ここでも再び2本の傘が描写されます。「ちょっとな…」は「ワンちゃん!!」とは異なり雨天の話です。「ワンちゃん!!」の段階では、彼が傘を1本持ち出しているために自宅には2本しか残っていないのではないかという読みが通りますが、その線はこの話によって絶たれます。雨が降っているにも関わらず、彼は傘を持たずに出かけるのです。

 

そして、TIME35.「しっかりしろ」では、それがさらに強化されていました。

傘をさすモブキャラクター、橋の下で傘を畳む風見、傘をささない降谷が本編で徹底して描き分けられていますが、特筆すべきはその扉絵です。

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週刊少年サンデー2019年27号99頁

雨天、車内の降谷零。曇天の闇に佇むRX-7

「ちょっとな…」で描かれたのは、地下駐車場の降谷とRX-7でした。愛車に乗って雨の闇夜に繰り出す彼を見ていると、降谷零の傘はRX-7に積んであるのではないか、あるいは彼の愛車そのものが彼の傘なのではないかと思えるものですが、それらの解釈を後者に絞り込む補助線のような扉絵です。

RX-7は、日本に献身する公安警察たる彼の最も近くに存在し、『ゼロの執行人』ではラストの最前線でも共に在りました。そして何より、RX-7は『名探偵コナン』本編でも多くの場面で彼を乗せ、彼のすべての顔を知っています。

黒の組織のバーボンの傘は黒、安室透の傘はその名のとおり透明(ないし白)。しかし、彼の持つすべての顔の根幹にいるのは、あくまでも降谷零その人です。トリプルフェイスすべてに寄り添う彼の愛車こそが、“降谷零”を雨から庇い他者から隔てる傘として最もふさわしいのでしょう。

 

 

2.ハロという存在

 

先程もちらりと触れましたが、改めて「ちょっとな…」の話をします。

 

「ちょっとな…」は肌寒い雨の夜に小腹を満たす話ですが、全体の雰囲気はグルメ漫画として一般的に想像するようなあたたかいものではありません。グルメといえばTIME.2「It’s a piece of cake」が楽しげに料理をする話でしたが、今回は違います。全体的に貼られたトーンによって薄暗さが際立ち、冒頭2ページに至っては台詞どころか擬音さえなくゾッとするほど静かです。先で引用した3巻117頁も、ハロの視点より更に低いアイレベルが不穏な雰囲気を醸し出しています。

降谷は「急用」とは言いますが、今夜なんらかの案件が動き連絡が来るということはわかっていたのでしょう。彼は食事中も連絡を待つかのように携帯をずっと側に置いています。だから深夜に起き出して夜食を作り、朝食を与えられないであろうハロにあらかじめ餌を与えるのです。

 

ニュアンスの話になりますが、「ちょっとな…」の雰囲気は、永遠に回収されない死亡フラグのようだと感じます。
「明日一緒に運動しよう……ハロ…」も「昼までには戻る…待っていられるかい?」も、嵐の前の静けさ、悲劇の予感、言ってしまえば死亡フラグのような台詞です。しかし、降谷零が『名探偵コナン』のキャラクターであり、『ゼロの日常』があくまでもそのスピンオフに過ぎない以上、このフラグが回収されることはありえません。単行本のオマケ絵も「ただいま」とハロを撫でる降谷です。彼は必ず帰ってきます。

 

話はすこし変わりますが、『ゼロの執行人』は『名探偵コナン』本編よりもリアリティラインが高めに設定されていた劇場版でした。ここにおけるリアリティラインは「高ければ高いほど現実に近く、低ければ低いほどフィクショナルであるもの」の意で受け取ってください。

脚本家の櫻井武晴は、『相棒』シリーズなどの多くの公安警察作品を手掛けてきました。一般的に、アニメーション作品よりも実写作品のほうがリアリティラインが高い傾向にあります。『ゼロの執行人』の初稿でも、実際のフィルムよりダーティな公安警察が描かれていたようですが、『名探偵コナン』の世界観に合わせて改稿が加えられ、今の形になったそうです。しかしそれでも、本編よりはかなり現実に寄せられていますし、それは立川譲監督自身もインタビューで触れています。

このあたりの話は名探偵コナン シネママガジン2018やアニメスタイル インタビューズ01などをご覧になってください。

名探偵コナン シネマガジン2018 (小学館C&L MOOK)

名探偵コナン シネマガジン2018 (小学館C&L MOOK)

 
アニメスタイル インタビューズ01 (メディアパルムック)

アニメスタイル インタビューズ01 (メディアパルムック)

 

 

『ゼロの執行人』を契機とする安室透ブームを追い風に連載のはじまった『ゼロの日常』は、製作上の意図はどうあれ、結果だけ見れば、『ゼロの執行人』で現実寄りに拡張されすぎた降谷零という存在を『名探偵コナン』本編のリアリティラインに修正する作用を持っています。

『ゼロの執行人』の公安警察はリアリティラインが高く、『ゼロの日常』の公安警察はリアリティラインが低く設定されています。これはどちらがよりよいという話ではなく、作品の性質が異なっているということです。

『ゼロの日常』は、公安警察である降谷や風見が他者の作った料理を気安く口にしたり、外で飲酒をしたり、そういったことができる世界観です。しかしおそらく『ゼロの執行人』の彼らはそういったことはしないでしょう。そして、黒ずくめの組織というファンタジックな絶対悪が存在し、殺人ラブコメでありつつも少年誌としての倫理観を持っている『名探偵コナン』本編のリアリティラインに近いのは、『ゼロの日常』のほうなのです。

 

前置きが長くなりましたが本題です。
そもそも、ハロはなぜ『ゼロの日常』に存在するのでしょうか?

 

現実的な話をすると、スピンオフを連載するためにはスピンオフオリジナルのキャラクターがいたほうが話を動かしやすい、という都合があるのでしょう。ただ、上述した話を踏まえると、ハロは『ゼロの日常』のリアリティラインを象徴する存在であり、降谷零をスピンオフひいては本編のリアリティラインの世界に呼び戻す楔と言えるのではないかと思います。

まずもって、単身の潜入捜査官が犬を飼うことはありえないと言っていいでしょう。しかし『ゼロの日常』ではそれをしている。このフィクション性、ありえなさ、リアリティラインの低さを、ハロの存在そのものが象徴しているのです。

 

……ところで、降谷はどこに行ってきたのでしょうか?

 

もちろん仕事です。それも公安警察の。ここで考えたいのは、『ゼロの日常』で描かれなかった仕事ということは、もっとリアリティラインの高い公安警察の仕事、つまり『ゼロの執行人』のようにダーティで、本編では描けないような仕事なのではないか、ということです。

彼は雨の闇夜に愛車に乗って“外の世界”に出かけます。そして『ゼロの日常』の世界で待つハロの元に帰ってきて、『名探偵コナン』のリアリティラインに適応した姿を本編で読者に見せるのです。

潜入捜査官が犬を飼うということが現実的にはありえないからこそ、ハロは彼を本編に準じたリアリティラインの世界に帰らせる引力のような役割を果たしていると言えるのでしょう。

 

深読みが過ぎると言えばそれまでですが、こういった解釈が通りうる話だということでここはひとつ。「ちょっとな…」は全体の雰囲気が異質な回なので、俯瞰して読んでみても面白いかも、程度に捉えていただければと思います。

わたし個人としては、『ゼロの日常』がファンタジックな公安であればこそ『ゼロの執行人』のような彼の姿の示唆が可能になっていると考えるのは、結構面白いんじゃないかな〜と思います。

 

 

3.つながりと疎外

 

TIME.29(単行本3巻TIME.9)「ニッカポッカ」は、前回の記事で詳しくお話したTIME.21(単行本3巻TIME.1)「逃げてください」のバリエーションのような話です。

「逃げてください」は人々とつながる安室透と人々から疎外される降谷零、そしてそんな降谷零が踏切による断絶の先に姿を現し、人々に知られることなくストーカーを捕まえる話でした。

他方で「ニッカポッカ」はというと、「逃げてください」のように人々とつながる安室透と人々とから疎外される降谷零の描き分けを行いながらも、安室透と人々のつながりにフォーカスすることによって、やわらかくあたたかな後味の話になっています。

 

鶴山麗子の友人たちは、安室の披露したニッカポッカについての豆知識に感嘆するにも関わらず、振り込み詐欺への適切すぎる対処にはポカンと引いてしまいます。笑みを絶やさないのは鶴山のおばあちゃんだけです。それを引き立たせる129頁の背景効果もなかなかエグみがあります。

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『ゼロの日常』3巻125頁

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『ゼロの日常』3巻129頁

 

この描写は、「逃げてください」で安室がストーカーへの抵抗を諌めたときの榎本梓や栗山緑の反応と同種のものです。

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『ゼロの日常』3巻13頁

平和に日々を送る彼女たちは、身近に犯罪の危険が迫ったとき、怯えたり、あるいはそれを甘く見たりしてしまいます。まるで慣れているかのように犯罪に適切で的確な対処ができるのは、犯罪者と同じくらい異常で、非日常を想起させるものです。なぜなら、彼女たちは犯罪とは縁遠い小市民だから。

安室透はしばしば多くの雑学を披露しますが、やはりそれでも、犯罪への対処法を知っていて実践までできるというのは、どこか異様で呆気にとられてしまうようなことです。彼はあくまでも平素のような笑みを絶やしませんが、市民に忍び寄る犯罪の魔の手を見過ごせない“降谷零”が顔を覗かせた途端に、どうしても周囲から浮いてしまいます。それは残酷とも言える疎外ですが、おそらく彼はそれをわかっていながら、それでもそれをせずにはいられないのです。だって警察官だから。

 

「逃げてください」は、緑がストーカー撃退法を実践する機会を失ったことを惜しんで幕を閉じます。決して降谷が緑の心持ちに何か影響を与えられたわけではないというどこかビターな結末でした。ですが、「ニッカポッカ」はそれとは異なる着地を見せます。

この話では、彼は“安室透”としてひとつのお節介を働きます。屋根のテレビアンテナの調整と、屋根瓦の応急処置です。彼はそれについて恩を着せたりしませんし、テレビアンテナについては最後まで黙ったままです。しかし、後日訪れた専門業者は、屋根に応急処置がされていたこと、加えてアンテナには問題がなかったことを鶴山のおばあちゃんに伝えます。そして彼女は“ポアロで”会ったらお礼をしなくちゃと考えるのです。

ポアロで会うのはもちろん“安室透”ですし、彼女は彼の他の顔など知る由もありません。「逃げてください」の降谷は緑の知らぬ間にすべてを片付けましたが、当然感謝されることはなく、彼もそれを望みません。

専門業者の男はアンテナには問題なかったと言いますが、鶴山のおばあちゃんは、きっと安室がテレビアンテナも見てくれたことに気づいているのでしょう。それも含めてのお礼です。

「ニッカポッカ」は、小市民の日常に馴染むことのない降谷零の仕事と、小市民である鶴山麗子に気づいてもらえる安室透のやさしさの話なのです。降谷零と安室透。そのどちらで話を〆るかだけでこんなにも後味が違うあたり、テクニカルな構成に唸るしかありません。

 

余談、というほど余談でもありませんが、「ニッカポッカ」のもうひとつ面白い点に、安室がお茶を断っているところがあります。業者は出されたお茶を当たり前に飲んでいるにも関わらず、です。

先述したリアリティラインの話を踏まえるならば、ここで安室がお茶を断ったのは、公安警察としてではなく、本当に気遣いは無用だと思っているからなのでしょう。しかしそれでも鶴山のおばあちゃんは安室のやさしさに気づいてくれるし、自身もまたやさしさを返そうと、人間関係のあたたかな循環にごく自然に安室透を組み込んでいます。関わりを持つ人々とそれでも一線は保とうとする安室透と、それでも彼を慕う老女。それは彼にとってはしばしばやりにくいものかもしれませんが、それでもその結末はどこかあたたかくさわやかなのです。

 

 

4.見つけたよ

 

そもそもなぜ改めてブログを書いているかというと、TIME.35「しっかりしろ」がとんでもない話だったからです。扉絵については既に語りましたが、本編の話もしておきます。

 

「しっかりしろ」は堤無津川が舞台の話です。嵐の中、川に落ちた子供を見つけた風見は、救助のためにやむを得ず川に飛び込みます。あわや溺死かと思われた矢先、降谷が――という展開であるわけですが、ここで何より重要なのは、風見が子供を「見つけた」ことです。

 

堤無津川といえば、降谷とハロが出会うTIME.5「君も…」です。

作中では堤無津川と明言されてはいませんが、単行本オマケ絵ではっきり堤無津川周辺と語られています。そしてこのときのロケーションも「雨天」「橋の下」であり、これはそのまま「しっかりしろ」のシチュエーションと重なるものです。また、TIME.8「綺麗にしてやる」にて、一度は別れた降谷とハロが再会するのも橋の下にほど近い川縁でした。

 

以前の記事でも触れましたが、ハロは野良犬であり、TIME.9「いけないよ」では、同じく野良である猫を除き、他の人間や動物から徹底して無視されていました。まるで透明であるかのように扱われ、誰にも見つけてもらえないのです。

そんなハロを降谷は何度も見つけます。幼き日の彼を見つけてくれたのは宮野エレーナです。それに気づいたとき、彼は観念してハロを拾うことにしました。彼はもうハロを「見つけて」いたのです。いつかの思い出のように、けれどあの頃とは立場を変えて。

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『ゼロの日常』1巻140頁

 

「いけないよ」では、降谷が傘を放って車の前に飛び出してハロを助ける一幕があります。これと相似の構造にあるのが、「しっかりしろ」で傘を手放して橋の下から嵐の川に飛び込む風見です。彼は片手に傘を持っていましたが、携帯電話で通報しペットボトルを子供に向かって投げる中で、目の前の要救護者のために傘を放っていることがわかります。

「いけないよ」も「しっかりしろ」も、誰にも見つけてもらえずに死んでしまうところだった誰かのために、己の身を雨に晒してでも彼らを抱きとめる話なのです。

 

降谷がハロを拾うことに決めたのは、ハロにかつての自分を重ねたからであり、自分がかつてエレーナに見つけてもらったように、自分がハロを見つけていたことに気づいたからです。見つけなければ何も始まらず、ハロはあのまま車に轢かれて死んでいたかもしれません。

風見は訓練を受けた警察官であり、要救護者がいたらその知識と経験を使って必ず助けようとすることでしょう。けれどそれも、まず見つけなければ始まらない。見つけたからこそ救えた命があるように、誰にも見つけてもらえずに終わる命があることを、降谷は知っていることでしょう。だから「よくその子を見つけたな!」なのです。

 

聴覚と視覚を遮る荒天の中で子供を見つけた風見を、降谷はまっすぐに称賛します。「よくその子を見つけたな!」は『ゼロの日常』ではわりと珍しくフォントが変えられています。モノローグや通話、子供の明るい台詞やギャグテイストの場面ではフォントの変更がありますが、シリアスな場面でこのフォントになっている話は前回の記事で全部取り上げていることにこれを書きながら気がつきました。パンチラインパンチラインとして演出するのがうまい……。

話が逸れましたが、何が言いたいかというと、たとえ嵐の中であっても、降谷の言葉は風見に届くのだということです。眼鏡まで失くした風見はおそらく降谷の顔もロクに見えていないでしょうが、それでもその言葉は耳に届いているし、きっと、大切なことはちゃんと見えているのでしょう。

「しっかりしろ」は、風見もまた、(降谷にはしばしば及ばないながらも)彼のように誰かを見つけて救うことができるのだという、祈りのような話なのだと思います。

 

 

それでは、ここまで読んでくださってありがとうございます。

『ゼロの日常』をよろしくお願いします。

 

最後に重要なお知らせですが、この「嵐」や「見つけた」話が刺さる人は、ぜひ幾原邦彦監督の『ユリ熊嵐』を観てみてください。

 

 

新井隆広/原案協力:青山剛昌『ゼロの日常』(1〜3巻)小学館

新井隆広/原案協力:青山剛昌「ゼロの日常」『週刊少年サンデー』(2019年27号)小学館