小夜倉庫

ごくまれに更新される

祈りと宣誓

祈りの時代はどうやら終わったらしい。幾原邦彦はそれを終わらせてしまった。

 

幾原邦彦展でも、彼は時代を反映した作品を生み出すクリエイターだと言われていた。それは実際、まったくそうだ。『さらざんまい』も東日本大震災に強く影響を受けている。

東日本大震災を経て、物質の時代は終わったのだと彼は言う。欲望がモノの形を取らない時代。絆が声高に叫ばれ、つながりの時代になったのではないかと。

 

震災の折、わたしは「祈り」について考えていた。

万策尽きたとき、人は祈ることしかできない。たとえば遠くの戦争、遠くの災害、遠くの悲劇、誰かの訃報。死ははるか彼方なので、これもまた遠い。手の届かないところに向けられた悲しみは当て所なく、人は上を向き、天に祈る。

祈りなんて言っても、それは結局のところエゴなのだろう。こうなってほしい、こうであってほしい。手の届かない領分にまでそんなことを望むのは傲慢だ。しかしだからこそ、その営みを笑うことなんてできない。

だって本当に、祈るしかなかった。震災に限らず多くがそうだ。祈るしかない、それしかできないことなんて、この世界にいくらでもある。発信したり、行動したり、たしかにそういうこともするけれど、世界が目に見えて変わるわけではない。そういえば、セカイ系なんて胡乱な言説が飛び交っていた時期があった。まあそんな話はどうでもいい。至極どうでもいい。

 

『さらざんまい』全話を通じて最も好きな台詞は、少年院から出てきた久慈悠の「それがどうした」だ。あんまりにも力強くて、涙が出る。

 

世間ではどうやら彼が身投げをしようとしたと捉える向きもあるようだが、わたしはそうは思わない。スッと途切れる劇伴、沈黙、それを打ち破る彼の声、夏めいた青空と陽光。まるで青春時代に馬鹿をやるかのような。むしろひじょうにポジティブな印象を受けるフィルムだった。

まるで青春時代に馬鹿をやるかのような――そう書いたが、それは全面的には適切ではないだろう。彼は不可逆の喪失を知っている。青春時代の万能感は既に失われているし、あるいは思春期の孤独もそうだ。彼はさらざんまいでつながっている。

だったら、あのさわやかさは、一過性の、我々がありがたがって特別視する何かではない。

 

青春と人生って、何が違うんだろう。

 

彼らのパワーは、我々が過去に置いてきたものではない。あるいは、あの頃も燻ぶらせたまま解放されることのなかった、今となっては古傷にも似た何かでもない。それは多分、今も。

だったらもうそれは、人生じゃないか。青春でもなく、世界でもなく。わたしの。

 

「それでも」は祈りだ。このどうしようもない世界の中にあっても、せめてこうありたいという祈り。最終話でも、矢逆一稀は何度も口にする。それでも、それでも、それでも!

だが、「それがどうした」は、もう既に、祈りという言葉には収まらないだろう。それはもはや宣誓と呼ぶにふさわしい。世界への宣誓。現実への宣誓。力強く、ややもすれば傲慢で、しかし誠実でやさしい言葉だ。

世界はすぐには変わらない。カワウソは今日も概念として存在し続ける。だが、それがどうしたというのだ。自分は今ここで生きているのだ。だから、それがどうした。

卵の殻を破らねば……とかつて何度も耳にした。けれどそれでも生きてきたのだ。何度でも生まれ変わりながら、今日も明日も生きてゆく。

 

 

この日記をアップロードしたら、お風呂に入ろうと思う。ゆっくりと湯船に浸かって、全身を濡らそう。流石に川に飛び込む度胸はないし、飛び込むような川も近隣に見当たらないが、さしあたってその程度なら、わたしにも今すぐできる。

水から上がったわたしが、それがどうしたと言えることを祈っている。わたしは今すぐ強くやさしくなれるわけではないから。